底の抜けた香水瓶、回らないろくろ、肋骨が二本折れた骨格標本、穴の空いたガスマスク、インクの出ないカラーペン、三十八年前のカレンダー、モザイクが赤く塗られたヌード写真の束。
彼女の部屋には何に使うのか解らないものが散らかって足の踏み場もない。
使い途がないからこそ愛しいのだ、と彼女は言う。
「効率的で有益な物ほど信用できないものはないの」
と彼女は僕の脇腹に舌を這わせながら、きっぱりと言った。
今、効率を求めるなら触って欲しいのはそこじゃない。全く徹底しているよね。きっと僕も取り立てて使い途がない愛しいもの、なんだろう。
と、天井にぶら下がった夥しい数のゴワゴワに固まった筆を眺めながら、苦笑いする。
2008年12月30日火曜日
偶然の猿
粘土をこねていたら、ハゲウアカリみたいな顔が出来た。と思ったら、目玉がきょろんと回って、動き出す。
「あなたは、やっぱりハゲウアカリ? それとも私の知らないお猿さんかしら」と問うと、首を傾げて考え込んだまま、粘土に戻ってしまった。
「あなたは、やっぱりハゲウアカリ? それとも私の知らないお猿さんかしら」と問うと、首を傾げて考え込んだまま、粘土に戻ってしまった。
2008年12月28日日曜日
冷気
これは、ハリボテの恋心。見せ掛けだけの、取り繕った、恋心。
冷気がやってくると、胸の高鳴りはすぅと収まって、冷たい私だけが残る。
好きなままでいたい。けれども、耳にひゅっと冷たい空気を感じたら、途端にときめきもいとおしさも消えてしまう。なんて貧弱な恋だろう、冷気ごときに負けるなんて。
一体、冷気がどこからやってくるのか。知りたくないのに、振り向いて後ろを確かめずにはいられない。
また、冷えた風が耳たぶを掠めた。
熱い風呂に入ろう。温まったら、あなたの夢を見ていいですか。さすがの冷気も夢までは襲ってきません。
冷気がやってくると、胸の高鳴りはすぅと収まって、冷たい私だけが残る。
好きなままでいたい。けれども、耳にひゅっと冷たい空気を感じたら、途端にときめきもいとおしさも消えてしまう。なんて貧弱な恋だろう、冷気ごときに負けるなんて。
一体、冷気がどこからやってくるのか。知りたくないのに、振り向いて後ろを確かめずにはいられない。
また、冷えた風が耳たぶを掠めた。
熱い風呂に入ろう。温まったら、あなたの夢を見ていいですか。さすがの冷気も夢までは襲ってきません。
2008年12月26日金曜日
2008年12月24日水曜日
2008年12月23日火曜日
ボタン幽霊
このアパートに越してきてからというもの、ボタン幽霊に悩まされている。
家中のスイッチやボタンを押して回るのだ。私は幽霊の後を付けて電気のスイッチを消したり、突然鳴り出すCDや、何も入っていないのに周りだす洗濯機を止めたりしなければならない。
ある時、すっかり開き直った私は、スイッチやボタンを消して歩くのは止めにした。キリがないんだもの。
そうしたらボタン幽霊は、構ってほしいとばかりに私の鼻をぷにぷにと押し続けるようになった。
ついに、私の鼻はボタン幽霊に押されると「ピンポーン」と音が出るようになってしまった。
家中のスイッチやボタンを押して回るのだ。私は幽霊の後を付けて電気のスイッチを消したり、突然鳴り出すCDや、何も入っていないのに周りだす洗濯機を止めたりしなければならない。
ある時、すっかり開き直った私は、スイッチやボタンを消して歩くのは止めにした。キリがないんだもの。
そうしたらボタン幽霊は、構ってほしいとばかりに私の鼻をぷにぷにと押し続けるようになった。
ついに、私の鼻はボタン幽霊に押されると「ピンポーン」と音が出るようになってしまった。
2008年12月21日日曜日
溺れる石
アクアマリンのピンキーリングは、湯船に入るとするりと小指から抜けてしまう。何度も拾い上げて嵌め直すのだが、すぐにまたするりと抜ける。普段はちょっときついくらいなのに。
ゆらゆら沈んでいっているようにしか思えないのだけれども、どうやら泳いでいるつもりらしい。
ある時、沈んだまま放っておいたら、薄青い石はゼリーのようにぷるんぷるんと震えだした。いい気味だったけれど、あんまり苦しそうで、そのまま溶けてしまいそうだったから、拾い上げた。
ずいぶん懲りたようで、その後は風呂に入っても指から抜けることはなくなった。
ゆらゆら沈んでいっているようにしか思えないのだけれども、どうやら泳いでいるつもりらしい。
ある時、沈んだまま放っておいたら、薄青い石はゼリーのようにぷるんぷるんと震えだした。いい気味だったけれど、あんまり苦しそうで、そのまま溶けてしまいそうだったから、拾い上げた。
ずいぶん懲りたようで、その後は風呂に入っても指から抜けることはなくなった。
2008年12月20日土曜日
ジングルベルが聞こえない
クリスマスイヴまであと四日だというのに、商店街からもラジオからも、クリスマスソングが一向に聞こえてこない。
どうにも気分が盛り上がらなくていかん、と思ったので小学生の時に買ったクリスマスソングのレコードを引っ張り出してきた。
針を落としてもチリチリピチピチいうだけで何も音楽は流れてこない、ぐるぐる回る黒い円盤を眺めて数十分、B面にひっくり返してまた数十分。とうとうクリスマスソングは一節も聴こえなかった。
ならば大声で唄おう、ジングルベルを。
往来に出て唄い始めたが、僕の口から出てきたのはジングルベル、ではなかった。
「サンタクロースはぎっくり腰につき、クリスマスを延期する。しばし待たれよ」
よく響くテノールの声だった。
どうにも気分が盛り上がらなくていかん、と思ったので小学生の時に買ったクリスマスソングのレコードを引っ張り出してきた。
針を落としてもチリチリピチピチいうだけで何も音楽は流れてこない、ぐるぐる回る黒い円盤を眺めて数十分、B面にひっくり返してまた数十分。とうとうクリスマスソングは一節も聴こえなかった。
ならば大声で唄おう、ジングルベルを。
往来に出て唄い始めたが、僕の口から出てきたのはジングルベル、ではなかった。
「サンタクロースはぎっくり腰につき、クリスマスを延期する。しばし待たれよ」
よく響くテノールの声だった。
2008年12月19日金曜日
猫を飼えばよかった話
「子猫を貰ってくれませんか」
と十七歳の娘に言われた。紺色のブレザーの制服は随分くたびれている。そのせいだけでなく、どことなく生活臭の漂う、小母さんのような十七だ。
猫はまだ二ヶ月くらいで、肉付きのよい娘の胸に抱かれていた。キジトラの、丸い目をした子猫だった。
「うちでは飼えないよ、アパートなんだ。おまけに、小鳥がいるからね。きっと猫は小鳥を襲ってしまうよ。今はまだ大丈夫だろう。小鳥のほうが早く逃げる。けれど、猫はすぐに大きくなって、小鳥を食べたがるに決まっているんだ。僕は小鳥が猫に食べられるところは見たくない。黄色い小さな羽がバサバサと飛び散るのを、君だって見たくはないだろう?」
十七歳の小母さんみたいな娘は、尤だという顔して「他をあたってみます」と小母さんそのものの声で言うと立ち去った。
アパートに帰って、鳥籠を覗くと、小鳥は一羽も居なかった。籠の中では、鼠がチョロチョロと動き回っているだけだった。僕は頭を抱えた。やっぱり猫を引き取ればよかったのだ、と思った。
と十七歳の娘に言われた。紺色のブレザーの制服は随分くたびれている。そのせいだけでなく、どことなく生活臭の漂う、小母さんのような十七だ。
猫はまだ二ヶ月くらいで、肉付きのよい娘の胸に抱かれていた。キジトラの、丸い目をした子猫だった。
「うちでは飼えないよ、アパートなんだ。おまけに、小鳥がいるからね。きっと猫は小鳥を襲ってしまうよ。今はまだ大丈夫だろう。小鳥のほうが早く逃げる。けれど、猫はすぐに大きくなって、小鳥を食べたがるに決まっているんだ。僕は小鳥が猫に食べられるところは見たくない。黄色い小さな羽がバサバサと飛び散るのを、君だって見たくはないだろう?」
十七歳の小母さんみたいな娘は、尤だという顔して「他をあたってみます」と小母さんそのものの声で言うと立ち去った。
アパートに帰って、鳥籠を覗くと、小鳥は一羽も居なかった。籠の中では、鼠がチョロチョロと動き回っているだけだった。僕は頭を抱えた。やっぱり猫を引き取ればよかったのだ、と思った。
2008年12月17日水曜日
2008年12月14日日曜日
ご清聴ありがとう
朗読者が口を開くと中からひょっこりと小さなピエロが出てきたのだった。周りを見回したが、誰も驚いた様子はない。ピエロが見えていないのか、当たり前の光景なのかはわからない。
ピエロはマイクにちょこんと腰を下ろし、朗読を聴いている。時に頷き、時に可笑しそうに笑いながら。ピエロを見るのに夢中だったのにも関わらず、朗読者の声は、私の耳にとろとろと流れ込み、鮮やかに世界を造った。私はピエロと同じように頷き、多いに笑った。
朗読者が最後の一声を発し終わる寸前、ピエロはくるんとお辞儀をしてから朗読者の口内に飛び込んだ。
観客の拍手に応えて朗読者は頭を下げる。それはピエロとそっくりのくるんとしたお辞儀だった。
てんとう虫の呪文フライヤー用書き下ろし@西荻ブックマーク「超短編の世界」
ピエロはマイクにちょこんと腰を下ろし、朗読を聴いている。時に頷き、時に可笑しそうに笑いながら。ピエロを見るのに夢中だったのにも関わらず、朗読者の声は、私の耳にとろとろと流れ込み、鮮やかに世界を造った。私はピエロと同じように頷き、多いに笑った。
朗読者が最後の一声を発し終わる寸前、ピエロはくるんとお辞儀をしてから朗読者の口内に飛び込んだ。
観客の拍手に応えて朗読者は頭を下げる。それはピエロとそっくりのくるんとしたお辞儀だった。
てんとう虫の呪文フライヤー用書き下ろし@西荻ブックマーク「超短編の世界」
2008年12月13日土曜日
メール奇譚
あの子からのメールはいつだって一文字も書いてない。「明日逢おう」の返事も、「好きだよ」の返事も、真っ白なメールが来るだけだから、YesかNoかもわからない。ただ返信だけは瞬時というくらいに早いから、僕はそれに縋りついている。
ところが、あの子からのメールを開いたまま、僕はふと携帯を耳に当ててみて、僕はあの子がとっても饒舌なんだと知った。びっくりして、慌てて、戸惑って。今まで来たあの子からのメールを全部初めてから聞き直した。
二時間掛けて聞き直して
「どうしたらきみと同じようなメールが出せる?」
と送信した。二秒も経たないうちに来た返事は
「バレちゃった?」
だった。
ところが、あの子からのメールを開いたまま、僕はふと携帯を耳に当ててみて、僕はあの子がとっても饒舌なんだと知った。びっくりして、慌てて、戸惑って。今まで来たあの子からのメールを全部初めてから聞き直した。
二時間掛けて聞き直して
「どうしたらきみと同じようなメールが出せる?」
と送信した。二秒も経たないうちに来た返事は
「バレちゃった?」
だった。
2008年12月12日金曜日
光の海
浮かぶのに、ちょっとした勇気とコツが要るのは、塩水の海と同様だ。
けれども、塩水の海のように手足を振り回すことも、醜い面で息継ぎをする必要もない。
それは初めのうち、僕をひどく混乱させた。手足を動かして体勢を整えることが何の意味も持たないことを理解するまで、随分かかった。
つまり、身体を動かそうと動かすまいと、一切状況は変わらないのだ。
必要なのは光で、光有れと願うことだけだった。
僕はこの海に飛び込んだ理由を思い出していた。夜空を白くする程に眩ゆい光が溢れ、僕はかつてない胸の高鳴りを覚えたのだ。昨日まで何よりも美しいと感じていた夜空の月も星も、その存在すら忘れていた。
ふと、眼下に影があることに気付く。それは僕の影で、その影があまりにくっきりと正しい黒なので、ほんの一瞬見惚れた僕は、忽ち海の底よりも深くに沈んでいく。
けれども、塩水の海のように手足を振り回すことも、醜い面で息継ぎをする必要もない。
それは初めのうち、僕をひどく混乱させた。手足を動かして体勢を整えることが何の意味も持たないことを理解するまで、随分かかった。
つまり、身体を動かそうと動かすまいと、一切状況は変わらないのだ。
必要なのは光で、光有れと願うことだけだった。
僕はこの海に飛び込んだ理由を思い出していた。夜空を白くする程に眩ゆい光が溢れ、僕はかつてない胸の高鳴りを覚えたのだ。昨日まで何よりも美しいと感じていた夜空の月も星も、その存在すら忘れていた。
ふと、眼下に影があることに気付く。それは僕の影で、その影があまりにくっきりと正しい黒なので、ほんの一瞬見惚れた僕は、忽ち海の底よりも深くに沈んでいく。
2008年12月10日水曜日
2008年12月9日火曜日
2008年12月7日日曜日
乾いた空気
今日は随分空気が乾燥しているようだ。
そう思った途端に喉の粘膜の、粘膜という名称を疑いたくなるような不快感に襲われ、俺は激しく咳き込んだ。
その口から飛び出すのは、唾の飛沫ではなく、枯れ葉の欠片であった。
なかなか治まらない咳きの隙間を縫うように、どうにか息を吸い込めば、今さっき撒き散らした葉の欠片を吸い込んで、それが更に激しい咳きを誘発する。
咳きはいつまで経っても治まる気配はなく、俺の足元には赤や黄色の砕けた葉が積もる一方で、たぶん俺はこの枯葉に埋もれて死ぬのだ。
そう思った途端に喉の粘膜の、粘膜という名称を疑いたくなるような不快感に襲われ、俺は激しく咳き込んだ。
その口から飛び出すのは、唾の飛沫ではなく、枯れ葉の欠片であった。
なかなか治まらない咳きの隙間を縫うように、どうにか息を吸い込めば、今さっき撒き散らした葉の欠片を吸い込んで、それが更に激しい咳きを誘発する。
咳きはいつまで経っても治まる気配はなく、俺の足元には赤や黄色の砕けた葉が積もる一方で、たぶん俺はこの枯葉に埋もれて死ぬのだ。
2008年12月3日水曜日
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