2002年9月29日日曜日

すてきにへんな家

ぼくは家を買った。
中古の小さい家で、とにかく安かった。
下見もせずすぐに買うことを決めた。
そして今日から新しい古い家で暮らす。
家はとにかくボロだった。
さらに、とても効率の悪い作りだった。
台所や風呂はヘンな位置だし、天井ばかり高くて寒かった。
開閉不可能な位置に窓が二つもあるし勝手口は台所ではなく玄関の隣りにへばりついていた。
そして庭には自転車が六台捨てられ、屋根瓦は4種類まぜこぜだ。
ぼくは自転車を引き取ってもらうために電話をかけ、床を磨き、(手が届く)窓を拭き、3時間かけて選んだカーテンを吊した。

パウル・クレー≪回想譜≫をモチーフに

2002年9月28日土曜日

仮面の独白

とにかくオレは仮面だ。
しかーし、オレはそんじょそこらの仮面じゃないぜ?
なにしろこうして人格があるんだから。
普通は、仮面は本面の一部だ。
都合に合わせて出たり消えたり。
だがオレは本面にないモンでできてるし
四六時中前に出てるんだ。
ところが!せっかくオレ様が庇ってやってるのに、本面は疲れ果ててる。
オレが剥がれるのが恐いらしいんだ。
まったく、無理してオレを作るからだよなぁ?
いっそのこと本面を乗っ取ろうかと思ってるんだが、アンタどう思う?

パウル・クレー≪喜劇役者≫をモチーフに

2002年9月24日火曜日

ある無口な男の話

彼は片輪であることを隠さなかったが、その理由を語ることもなかった。
彼の瞳はいつも憂いを帯びていた。しかし、黙って遠くを見据えていた。
町の人々は片輪の理由も憂いの理由も知っていた。
それでも彼を遠巻きに見る者は多かった。

そんな彼を遠方から訪ねてきた者があった。
若い娘とその母親だった。
「ただいま……」
彼の目から憂いが静かに流れていった。

パウル・クレー≪片翼の英雄≫をモチーフに

2002年9月22日日曜日

透明な視線

ぼわぁぁ……
生暖かい感触に包まれて、俺は思わず立ち止まった。
妙に生々しくて急激に血が巡りはじめるのを感じた。
さっきから人は一人も見なかった。
景色は雄大で、それがかえって孤独を感じさせた。
なのに、なぜか視線を強く感じる。
怒りにも似た恥ずかしさ……誰も見ていないのに、ひどく居心地が悪かった。
本当に誰もいないはずなのだ。
家を一軒づつ覗いてみたのだから。
それでも射るような視線を感じるのは何故だ?
誰もいないのにたくさんの家があるのは何故だ?
女に抱きつかれているような、この感触はなんだ?

「隠れて!」
生暖かいものがささやいた。
「え?!」
ざわざわと無遠慮な噂話が聞こえてきた。
「ちょっと、あの人身体が見えてるよ!」

パウル・クレー≪マルクの庭の南風≫をモチーフ

2002年9月20日金曜日

不吉な家の上にのぼった星々

「不吉な家」と呼ばれる家があった。
その家の住人は極めて温厚だったし、それなりに幸せに暮らしていた。
それでも家は「不吉な家」と呼ばれていた。
「不吉な家」はなかなか絵になる家だった。
建物としても、景観としても。
多くの人々が家をスケッチしたり写真を撮ったりしたがった。
その度に、かの住人はそれを承諾した。
そして、その度に人間が消え、星が増えた。
家の壁には何百枚もの家の絵や写真が
消えない染みとなって残っている。

パウル・クレー≪不吉な家の上にのぼった星々≫をモチーフ

2002年9月19日木曜日

WHITE SUN

友人Pの実家に遊びに行った。
そこは温暖な気候で、目に映るもの全てが鮮やかに見えた。
Pが、用事があるというので、俺は一人、彼の家に残された。
窓の向こうに緑濃き世界が広がっている。
降りてみないわけにはいかない。俺は庭に出てみた。
すぐにここが俺の知っている「庭」としては最大級だと気づいた。
広さも、美しさも。俺は心が躍った。
奥の方に大きな木が見える。あの木まで行ってみよう。
俺は早足で歩き始めた。鮮やかな花々に見守られながら。
まっすぐに木を見つめて、どんどん歩いた。
しかし、なかなか木は近づいてこない。俺は焦れてきた。
「どうなってるんだ、この庭は!」
俺はとうとう立ち止まり、手を膝に、呼吸を整えた。
「……ふう。仕方ない、もう戻ろう」
「戻れないよ。」Pの声がした。
南の白い太陽の下で、俺とPが向き合っていた。

パウル・クレー≪南方の庭≫をモチーフに

2002年9月18日水曜日

急ブレーキ

土曜の朝、車を走らせていたら角からヒョイッと
少年が目の前に出てきた。
俺は急ブレーキをかけて車から降りた。
「おい、ボウズ!危ないじゃないか。ケガはないか?」
少年はなぜかニコッと笑って車を指差し「乗る」と言った。
10歳くらいに見えるが、もっと幼いのかもしれない。
服も少し時代遅れに見えた。
俺はそんな少年の姿に少し戸惑いながら、尋ねた。
「え?迷子なのか?どこか行きたいのか?名前は?」
でも彼は人懐っこい笑顔で車を指差すだけだ。
「オジサン、誘拐犯みたいだなぁ。」
と言いつつ、俺は少年を助手席に乗せていた。
少年は車に乗ると、目付きが変わり
「つぎ、曲がる。あっち」
ときっぱりと道を指示し始めた。俺は夢中でハンドルを切る。
いつのまにか町並みは変わり、暖かい色になっていた。
「着いた!あ、お母さんだ!」
「……え?!」
俺は、思いっきりブレーキを踏んだ。
少年の指差す先にいたのは、写真でしか知らない俺の母だった。

パウル・クレー≪赤と黄色のチェニスの家々≫をモチーフに

2002年9月17日火曜日

夕焼けがくれたエジプト

近所にそれは見事な三角屋根の家がある。
屋根は薄汚い海老茶色に見えるのだけど、
古い家だから当初の色が何だったのかはわからない。
さらに言うと、僕はその家の屋根しかみたことがなかった。
普段はその家の前を通るわけではなかったし、
なにより、その家は塀が高かったのだ。
それは、辺りの雰囲気を異質なものにしていた。
特にここ数年、周囲の景色から置いてけぼりにされていく様は
目を背けたくなるほどだった。
ところが、ある日を境に激しく惹きつけられるようになった。
その日、夕焼けの中を歩いていると
突然、宙に浮かぶピラミッドが現れた。
それがあの、三角屋根だったのだ。

パウル・クレー≪エジプトに捧げる小さなヴィネット≫をモチーフに

2002年9月16日月曜日

今日も僕は駅に向かう

これは夢かもしれないなあ。
なんだか周りの景色がフワフワしている。
今日は目覚めが悪かったし。きのう飲みすぎたもんな。
でも、ちゃんとスーツを着て、鞄も持っている。
定期だって……ほらポケットに入っている。大丈夫。
それにしてもどうして夢のようだと感じるんだろう?
ああ、きっと霧のせいだ。
こんなに霧の濃い朝はずいぶん久しぶりだから。
次の角を曲がれは駅だ。
で、駅ってどんな形をしていたっけ?
僕は駅で何をするんだ?それより、駅って何?

パウル・クレー≪パルナッソスへ≫をモチーフに

2002年9月15日日曜日

闇盗人

真っ暗な部屋でレコードを静かにかける。
コーヒーにブランデーを垂らしながら。
聴くものは気分次第。クラシックでもロックでもいい。
今夜も部屋の明かりを消す。
だが、闇は来てくれなかった。
また向かいの家が夜更かししているな。
少しイラつきながらカーテンを閉めようと窓に近付く。
しかし、今夜の闇盗人はお向かいサンではなかった。
カーテンは開けっ放しにしておくよ。
そう呟くと望月が笑った、ように見えた。

2002年9月14日土曜日

風呂上りの夜空に

彼は風呂上がりにアイスコーヒーを飲むのが習慣だった。
人になんと言われようとあまり気にした様子なかった。
ある夏の夜、風呂上がりの彼は裸のままアイスコーヒー片手にベランダへ出た。
しばらくすると、上からストローが伸びてきて、瞬く間に手の中のグラスは空になった。

2002年9月13日金曜日

ラジオ

僕はおじいちゃんから貰った古いラジオをもっている。
ゆっくりとダイアルを回さないと機嫌が悪くなるあたりがおじいちゃんにそっくりだ。
雑音も多いけど、僕はこのラジオが気に入っていた。
ある日、ガールフレンドが遊びに来た。
僕はラジオをつけて、コーヒーを入れた。
おしゃべりの最中、彼女が突然カップを倒してしまった。
コーヒーはラジオにもかかり彼女も僕も焦った。
ところがそれ以来、おじいちゃんのラジオは感度バッチリご機嫌ラジオになってしまった。
そう言えば、おじいちゃんはコーヒーと女の子が大好きだったっけ……。

2002年9月12日木曜日

turn it into rain

コーヒーをこぼしたら、とたんに外で雨が降りだした。
紙コップコーヒーを持ち歩いていたら、人にぶつかってコーヒーが飛び散った。
雨が降った。
それ以来、僕はときどきコーヒーをこぼすようにしている。
わざとらしくないようにね。
そうしないと、深刻な水不足になってしまう。やれやれ!

2002年9月11日水曜日

ポスター

喫茶店で、ふとポスターが目に付いた。
幾何学的に書かれた女の姿。
もう色褪せているけど、とてもモダンな香りがした。
僕はそのポスターに一目惚れした。
それから週に一度はそのポスターに会いに行った。
なるべく空いた時間を狙って、ポスターがよく見える席を陣取った。
「あれは何のポスターなんですか?」
マスターに聞いてみたが、彼もよくわからないらしかった。
ある日、マスターが奥に入った隙に、僕はポスターに話し掛けた。
「ねえ?君は誰?」
ポスターの女の体は一瞬、色鮮やかになり、そして静かに崩れた。

2002年9月10日火曜日

濁った水溜り

水溜まりに入りたくなるなんて俺もまだまだガキだよなあ。
なんて思いながら辺りを見回してバシャバシャとやった。
沈んだ泥が舞い上がる感覚にニヤリとしてしまう。
これって「汚したい衝動」ってやつ?ちょっと違うか。
なんだか頭ン中が独り言だ。
翌朝、母さんがコーヒーを飲むのを見て
昨日の濁った水溜まりを思い出した俺は悪い子でしょーか?

2002年9月9日月曜日

SMOKE GETS IN MY EYES

香を焚いたら、やたら煙が多くて、咳き込んでしまった。
「おっかしいなぁ」
と涙をぼろぼろ流しながら、香立てを見るとお香はコーヒーに変わっていた。
コーヒーは、とてもおいしかった。
空のカップを香立てに載せると、さらさらと灰になった。
僕も灰になった。

2002年9月8日日曜日

消えない十字架

遅い朝食の後、コーヒーを飲んでいた。
彼女は僕のコーヒーをひとくち飲むと、僕のパジャマのボタンをひとつ外した。
ヒトサシユビが僕の胸を静かになぞった。
僕は黙ってその動きを見ていた。
赤い十字が浮き上がり、そして崩れた。
痛くはなかったが、ひどく悲しかった。
彼女は十字架から溢れた血を舐め、「ありがとう」と涙を一粒こぼして消えた。
今でもその十字架は僕の胸にある。

2002年9月7日土曜日

Crying out loud

大人になれば泣くことはないと思ってた。
小さい頃は泣きながらいつも心は冷めていたから。
「もっと大声で泣いてやろうか?飽きてきたから泣き止もうか?」って。
でも本当に喚きたいのは大人になってからだ。
テーブルのコーヒーカップを薙ぎ倒したくなるのは大人になってからだ。
パジャマのまま、どしゃぶり雨に射たれて叫びたい。
でも、それはできないのよ?
連れ戻して頭を撫でてくれるはずの大きな手は消えてしまった。
だからわたし、泣いている。

2002年9月6日金曜日

G・Rain

三日も雨が降り続いていた。
コンクリートの壁はじっとりと汗をかいている。
俺は通りのオープンカフェでコーヒーを飲んでいた。
コーヒーは都会のカビくさいような埃っぽい雨の匂いに負けて、何の風味もしない。
今、俺はここで人を待っている。
あまり愉快な待ち合わせではない。
「よぉ。洒落たカフェでコーヒーなんて、たいそうなご身分だな」

2002年9月4日水曜日

悩み

俺は悩んでいた。
家に居ては絶望するばかりなので、駅前の喫茶店に行くことにした。
幸い、時間は有り余っている。
気の済むまでコーヒーでも飲んでいればいい。
その行き帰りの道のりも運動になっていいかもしれない。
早速出かけようと、靴を履きながらハタと気付いた。
喫茶店では悩みが深まるばかりだ。
俺は今、眠れなくて困っているのだ。

2002年9月3日火曜日

マニキュア

妻にとってマニキュアを塗るという行為は儀式だった。
彼女はまずコーヒーを入れる。
それから、手を念入りに洗って、マッサージする。
そして何十色もある中から一つを選び、
お気に入りのチェアーに掛けて、ライトを点けて
塗りはじめる。右手の親指から。
僕は妻の入れたコーヒーを飲みながらそれを眺める。
僕の見ている前でしか、妻はマニキュアを塗らない。
それは僕にとっても儀式だった。
コーヒーはいつもとなぜか味が違う。
妻の顔も、いつもとはなぜか違う。

2002年9月2日月曜日

おばあさんが話してくれたこと

病院でよく会うおばあさんが
「お茶でも飲みましょう」
と喫茶店に誘ってくれた。
そこは10代の僕は遠慮してしまうような、雰囲気のある店だった。
要するに、古くてボロかった。
おばあさんは生まれて初めてのデートで飲んだ、これまた生まれて初めてのコーヒーのことを話してくれた。
それはブラックコーヒーと同じくらい苦くて寂しくて、でもいい香りがした。
「そんな大切な思い出をなんで僕に?」

おばあさんの微笑みの意味は祖父が持っていた。