「旅の人の名前を訊いてはいけない」
主治医の言葉を反芻するように呟いた。それを上から見下ろすような気分の自分もいることに気が付いた。自分。
「私の、名前……」
「ああ、ダメですよ、名乗っちゃいけません」
主治医は、やさしく笑いながらも、ぴしゃりと言った。
「いえ、違うのです。あの……名前を、思い出せないのです、自分の」
そういえば、旅の間中、ずっと頭の中では独白を続けていたが、「私」や「自分」がどこか希薄だった。名前だけでない。以前の自分の一人称が、何だったのかも、よくわからない。
「……私? 僕? 俺? これは、誰だ?」
自身を「これ」と呟いてしまってから、しまったと思った。たちまち主治医が顔を曇らせる。
「名前を名乗れない・訊いてはいけない、のは、手紙を書きにくくするためなのは、わかりますね?」
「はい」
「確かにそれは罰のひとつです。だが、名前を完全に忘れるのは、症例として聞いたことがない……」
主治医の言葉は、半分独り言のようだった。