2019年11月30日土曜日

薬が無効

「我が家は代々続く医者です。この町で長く、消えず見えずインクの旅の人を送り出した実績もあり、信用されているのです。ですから、心配されるような、例えば我々家族が捕まるようなことは考えなくて、大丈夫です」

若者はいつになく饒舌だった。少し、興奮しているようでもあった。その証拠に、彼の天道虫がクルクルと勢いよく飛び回っている。

翌日、「消えず見えずインクを読むための装置」を持って、若者が帰宅した。ゴム手袋にしか見えない。これで消えず見えずインクを撫でると、インクに書かれている内容が読み取れるのだという。

主治医は、険しい顔のまま言った。
「この町の装置は、最新型ではありません。うまくスキャンできるかどうかは、わかりません。そしてもう一つ……」
「この装置は、今飲んでいる薬が無効になります」
途端に身体が緊張した。このゴムにしか見えない手袋は、一体どんな感触だというのだ。

2019年11月29日金曜日

迫害を禁ず。しかし

「そんな危ない目に合わせるわけにはいけません」
と言うのと
「父さん、ちょっと待ってください」
と若者が言ったのは、ほとんど同時だった。
「消えず見えずインクを読むための装置を、借りに行きましょう」
手続きをして、この旅の人のIDを照会しましょう、と。

主治医は唸った。それはそれで、面倒が多いことであると察せられた。消えず見えずインクの旅の者と深く関わることは、それだけ危ないことなのだ。

「消えず見えずインクの旅の人を案内したり、もてなすこと自体は問題ありません。むしろ、迫害したり邪険に扱うようなことは禁じられています。ただ、やはり、何日も一緒に過ごしたり家に泊めたりするのは、あまり勧められたことではないとされています。一緒に過ごすことで、手紙を書きたくなると言われているのです」

2019年11月28日木曜日

罪と罰だけの話ではない

「この町に転移してからも、字は問題なく読めました。『ドンナモンジャ』の樹の名札を読んだのを覚えています。元いた町と、この町の文字が違うというわけではないと思います。カードの文字が変異した可能性、あると思います」
なるほど……と主治医とその息子は腕を組んだ。

「それでもやはり、名前を全く覚えていないというのは、よくない症状だ。少し危険だが、これはもう旅の罪と罰だけの話ではない。私が責任を持とう」
と主治医は言った。
「旅の人、文字、書いてみましょう。あなたの、名前を」

紙とペンが差し出された。
文字を書くこと。名前を書くこと。それは罪である手紙に直結する行為だ。

消えず見えずインクの旅の者に、名前を訊いてはいけない。
その者に、名前を書かせようとすることは、より危険であることは、主治医の顔を見れば明らかだ。


2019年11月27日水曜日

変異文字

「消えず見えずインクの旅の人は、サイン入りのカードを持っているはずです」
いつの間にか、診察室に居た若者が言った。
「すみません、ノックをしても返事がなかったので」
「ああ、そうだったね。荷物はどうしましたか?」
息子の詫びを気にする様子もなく、主治医は言った。
荷物。そういえば旅の初めには小さなバッグを持っていたはずだが、いつの間にか失くしてしまった。

「荷物は繰り返す転移で、失くしてしまいました。いつ頃失くしたのだろう……。カード……そういえば、旅に出る時に写真を撮られました。確かポケットに」
手を入れると、カードがあった。見覚えがあるような、ないような人の写真と、サイン。恐る恐る差し出す。

「これは……我々の知らない文字だ」
と主治医が呟くと、カードを覗き込んだ若者が顔をしかめた。
「父さん、これは異文化の文字ではなくて、滲んだか……いえ、どこかで変質したんだと思います」


2019年11月26日火曜日

聞いたことがない症例

「旅の人の名前を訊いてはいけない」
主治医の言葉を反芻するように呟いた。それを上から見下ろすような気分の自分もいることに気が付いた。自分。
「私の、名前……」
「ああ、ダメですよ、名乗っちゃいけません」
主治医は、やさしく笑いながらも、ぴしゃりと言った。
「いえ、違うのです。あの……名前を、思い出せないのです、自分の」

そういえば、旅の間中、ずっと頭の中では独白を続けていたが、「私」や「自分」がどこか希薄だった。名前だけでない。以前の自分の一人称が、何だったのかも、よくわからない。
「……私? 僕? 俺? これは、誰だ?」
自身を「これ」と呟いてしまってから、しまったと思った。たちまち主治医が顔を曇らせる。

「名前を名乗れない・訊いてはいけない、のは、手紙を書きにくくするためなのは、わかりますね?」
「はい」
「確かにそれは罰のひとつです。だが、名前を完全に忘れるのは、症例として聞いたことがない……」
主治医の言葉は、半分独り言のようだった。

2019年11月6日水曜日

言ってはいけない

すっかり「主治医」となった若者の父上に思い切って聞いてみることにした。
診察室は、静かで、落ち着いた時間が流れている。

「ご家族の……皆さんの名前を知りたいのです。お名前で呼んで、ありがとうと、言いたい。これまでの旅で出会った人の名前も知る機会がなかった……知ってはいけないのでしょうか……」
後半は涙声になった。近頃はよく泣いている気がする。

「そう。名前を教えることはできません。消えず見えずインクの旅の人に名前を呼ばれると、我々も罪を問われるのです」

知らなかった。消えず見えずインクの旅の者とかかわるとそんな危険があったとは。ますますこれまで出会い、世話になった人々への思いが募る。申し訳ないような、切ないような、でも、腹の底から有難さが沸き上がってきた。

「……そして、旅の人の名前を訊ねることもできません」
主治医が続けた。

2019年11月5日火曜日

名前のない旅

目覚めはよかった。起きてから、感触はまったく元通りだった。
すべすべに見えるものは、すべすべに。
ざらざらしていそうなものは、ざらざらに。
これだけのことだが、大きなことだった。

「お目覚めですか?」と若者がやってきた。
「食事の用意ができています。部屋に運びましょうか。それとも、お嫌でなければ、ご一緒に」
若者と、若者の両親、そしてお祖母さんとともに食卓を囲んだ。こんなに大勢で賑やかな食事は本当に久しぶりだった。母上は明るく、お祖母さんも優しい人で、緊張せずに食事を楽しめた。
「どうです? 食べ物の味や噛み応え、食器の感触に違和感ありませんか?」
「おかげさまで薬がよく効いたようです。こんなに楽しい食事は久しぶりです」

しばらくこの医師の家に世話になった。家族は本当によくしてくれたし、父上のおかげで疲労が溜まっていた体もずっと調子が良くなった。若者と天道虫は、青い鳥ともずいぶん気が合うようだ。
だが、やはり、彼らの名前を知る機会は訪れなかった。そして誰にも名前を訊かれなかった。