2019年2月26日火曜日

叫び声が絡まる

「あの写真の人なら……前の街でお会いしました」
言うべきではないと一瞬思ったものの、先に口が動いていた。共通の話題、共通の知り合い。そんなお喋りに飢えていたのかもしれない。
「本当に?! 元気にしていましたか? どんな様子でしたか?」
目の前の人は、こちらの肩を掴みそうな勢いで訊いてきた。赤ん坊も驚いている。

「その街は、音が狂っている街でした。何もかも奇妙な音だった。そこで、あの人は楽団の指揮者をしていました。そして、この街に転移する切欠を作ってくれました」
美しい人の、挽き肉を捏ねたような声を思い出す。この街ではどんな声だったのだろう。
この食卓で食事をし、子守歌を歌い、あのベッドで眠っていたのだ、あの人は。

話すうちに胸が苦しくなってきた。目の前の人は、あの美しい人と深く愛し合っていたのだろう。嫉妬のような、罪悪感のような。そして僅かな優越感。
この小さな人も、もう少し大きくなったら美しくなるに違いない。もうその片鱗が見える。

ここに留まる事はできない。こんなに親切にしてもらったけれど、隠し事が長く続けられるとは思えなかった。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
決意した途端に赤い鳥が叫んだ。驚いた小さい人が泣き叫ぶ。
「ご親切に、ありがとうございました。もう、行かなければ」
「もう少し、話を聞かせて下さい」と懇願するのを振り切って、地上に戻った。

2019年2月25日月曜日

あの街が聞こえる

赤ん坊と、その付き添いの人の家は、地下深くにあった。
重い扉を開くと、白い静寂があった。
「連れ合いが耳の良過ぎる人だったので、静かな部屋を探しました」
と、地上にいる時よりも小さな声で、説明を受けた。
着替えの服を受け取って欲室へ向かう。
シャワーの水音がティンパニーでないことを、一瞬不思議に思い、そんなことを感じたことに戸惑った。
膝も掌も傷だらけだったが、大したことはなかった。初めに転倒した時の顔の傷が一番酷い。入念に洗い流す。
貰った服を着ると、知っている匂いがした。

「連れ合いは、見えず消えずインクのスタンプを押され、子を残して、旅立ちました」
傷の手当を受けながら、一人語りを聞く。
「音楽が好きで、大好きで。でも耳が良過ぎて、満足に聴けなかった」
「今頃、どんな街にいるのだろう」
視線の先に、写真があった。美しい人が、そこにいた。
服の匂い、甘い痺れ。
鼓動がメトロノームの音だったあの街に、繋がった。

2019年2月22日金曜日

地下への近道

小さな人は、迷いなく崩れ落ちそうな建物の下を這って行く。
「ちょっと待って」
声を掛けると、一瞬止まって振り向いたが、すぐにそのまま進んでしまった。
付き添いの二足歩行の人を探したが、見当たらない。
ぐずぐずしていると置いて行かれてしまう。何しろ小さい人の匍匐は速いのだ。
地震や大風や体当たりする人などがいないことを願いながら、浮いた建物の下に入った。

30インチくらいは浮いているようで、狭いが匍匐はできる。
四方が開けているとはいえ、少し暗い。上を見上げてみるが、よくわからなかった。
この天井が古いレンガ造りの建物の底だと知らずにいられたら、よかったのに。

前を行く赤ん坊が、不意に消えた。
「おい!」と叫ぶと、赤ん坊と、付き添いの二足歩行者が、地面から顔を出した。
「ここからは、足を付けて歩けますよ、地下ですから」
浮いた建物の下の地面にぽっかりと階段に続く穴が開いているのだった。
そういえば、青銅色の街でも、地下に案内されたことがあったと思い出しながら、階段を降りる。

2019年2月19日火曜日

浮遊の法則

ハイハイのなんと心地よいことか! 地面から浮かないことがこんなに素晴らしいことなんて!
這って歩く恥ずかしさも忘れて興奮する。

小さい人の匍匐は思いの外、速い。置いて行かれないように付いていく。
必死で進みながら、気が付いた。つまり、四点以上を使っての歩行ならば、浮かずに歩けるのだ。
共に地面を歩く猫や、犬や、蟻に、急に親近感を抱く。
両手に杖を持つ人も地面を歩いている。這って歩くより杖を入手したほうがよかったのではないか? いや、今考えても仕方がないことだ。

そして、四点以上使って歩く者は、浮いた物の下を通過できること……。蟻や、子猫は、3インチ浮いた建物の下を、さもそこも道であるという顔をして、そのまま通っていく。高層ビルの下に、手ぐらい入れてみようかと思ったが、やはりどうにも恐ろしくてできなかった。

さらに這って歩いて気が付いたことは、もう一つ。浮き具合は、必ずしもぴったり3インチというわけではない。
どうやら、「古いほどよく浮く」ようなのだ。人間も例外でなく、老人は少し高く浮いている。

今まさに、この街でおそらく最も古い建造物のひとつであろう、朽ち掛けたレンガ造りの建物の下に、先導する小さい人は迷いなく進んでいこうとしている。

2019年2月17日日曜日

匍匐が叶う

「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を介抱する者はおらぬか!」
赤い鳥は絶え間なく叫び続け、三回は転んだ。
初めに転んだのと合わせて都合四回も転べば、多少は巧くなるもので、顔から激突する事態は初めの一回だけで済んだ。
とはいえ、転ぶ度に顔や服は汚れており、鏡を見ずとも相当にみすぼらしい風体になっていることは明らかだった。
こんな格好で、赤い鳥が焦るように叫ぶから、なかなか「介抱する者」は現れない。

「どこかで手を洗わせてもらいたいのです」
と、赤い鳥の叫びに付け足すように言いながら地に足が付かぬまま歩いていると、赤ん坊を抱いた人が声を掛けてくれた。
「我が家でよければ、案内します。シャワーもありますし、古くて構わなければ着替えの服も差し上げましょう」
ありがたい申し出だった。さらに良いことに、この人の体格なら、服の寸法もちょうどよさそうだ。
「この子の真似をして歩けば、誰も不審に思いませんから、どうぞ這って付いていってください」
赤ん坊は地面におろされると、「委細承知」という面持ちで、ハイハイで進みはじめた。それに続いて、這って行くことにする。

2019年2月15日金曜日

匍匐の欲望

全く奇妙な出来事だった。
3インチ浮いた身体で、3インチ浮いた小石につまずき、転び、浮いていない地面に激突した。そして、顔から血を流しているのだ。

何が起きているのか判らず、しばらく地面に突っ伏していた。この街に来てやっと触れることのできた地面の感触を確かめてもいた。
手で触れる地面は、よく知っているアスファルトの舗装道路と同じようだ。

こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を介抱する者はおらぬか!」
赤い鳥はサイレンのように叫び続けている。しばらく構わずに地面に触れていたが、人が集まってきてしまったので、立ち上がることにした。
起き上がって、立つことはできた。が、二本の足で立ち上がった瞬間、もう足は地面につかないのだった。

血の滲む顔で笑うと、集まっていた人々は拍手し、そして少しずつ去っていった。
どうにも地面が恋しいが、這って歩くわけにもいかない。浮いて歩くことに慣れなければならない。何より、この汚れた顔と手を洗わなければ。

2019年2月11日月曜日

浮く世の道

足だけではないのだ。
街灯も、街路樹も、車も、建物も。何もかもが、3インチくらい、浮いていた。

思い切って、そのまま立ち上がった。浮くというのは、生まれて初めての経験だ。
ふわふわしているのとも違う。それよりも……風船の上に立っていると言ったほうが、近いかもしれない。
宇宙や宇宙船の中は無重力というが、おそらく、それとも違うだろうと思う。
赤い鳥も肩から浮いているが、特に気にしている様子はない。

足の感触と周りの景色に慣れようと、足踏みしたり、あたりを見回したりしているうちに、気球はいなくなっていた。

ゆっくりと歩き出した。なんとも心許ない。
!!
何が起きた理解する前に赤い鳥が叫んだ。
こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を介抱する者はおらぬか!」

2019年2月9日土曜日

遠い地面

雷鳴に押しつぶされ、身体が紙のように薄くなったように感じた。
いつの間にか身体の感覚が戻り、目を開けると、上空にいた。
気球に乗っていたのだ。
「ここはどこだ?」
気球に乗っているということはすぐにわかったのに、思わずそう呟くと、懲りずに付いてきたと見える赤い鳥が言った。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方は此処は何処かと問うておる!」
「まもなく街に到着します」
操縦士がいることにそれまで気が付かなかったことに驚いたが、言葉も通じるし、音色もおかしくはなさそうだ。

気球を降りる前に、慎重に周囲を見渡す。街の景色は、元居た街とは異なる雰囲気が少しあるものの、何かが酷く違って見えるわけではなさそうだ。

だが、その「異なる雰囲気」が何であるかは、地面に降りようとして、すぐに気が付いた。
地に足が付かないのである。

2019年2月7日木曜日

スポットライトを浴びながら

招かれた舞台に立つ。
美しい人と、楽団員と、観客の、ガラスが割れるような大きな拍手が身体に突き刺さる。
思わず、手に視線をやる。血は流れていない。

「さようなら。どうぞ、お元気で」
接吻しそうな近さで、美しい人が挽き肉を捏ねるような声で囁く。
忽ち、あの甘く官能的な感覚が蘇った。からかわれているのではないだろかという疑念がよぎるが、それどころではない。膝から崩れ落ちそうになるのを堪えて「ありがとう」と呟き返すのが精一杯だった。

「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
美しい人に促されて、シンバル奏者が楽器を携えてやってきた。
「よろしいですか」と問われて、「はい」と答える。
照明が暗くなり、すぐに目が眩んだ。スポットライトが当てられたようだ。観客の視線がこちらに集中しているのがわかる。
丸く薄い銅板が、背と腹を勢いよく挟む。雷鳴が響いた。

2019年2月4日月曜日

プレスティッシモ

衝撃的な音が身体に堪える。が、他の観客たちは、恍惚の面持ちで、音楽に身を任せているようだった。
やはり、この街にも長くは居られない。次の街に行こう。
そう思ったところで、音楽は鳴りやみ、観客は一斉に立ち上がり、拍手を始めた。ガラス瓶が割れるようなスタンディングオベーション。

指揮者が振り向いた。美しい人だった。
鼓動が高鳴る。鼓動までが、違う音……古いメトロノームの音とそっくりであることに気づき、一層、激しくなる。

今まで置物のように動かなかった赤い鳥が歌い出した。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」
美しい人と、視線が合う。手招きをされた。隣の客も微笑み、促す。

仕方なく舞台へ向かう。その間も赤い鳥は歌い続けた。
「こちらに御座します、消えず見えずインクの旅券を持つ旅のお方を然るべき儀式で送る者はおらぬか!」