「酒が飲みたいって? 生憎、ここにはパブなんて一軒もないよ」
赤い顔をしたおじさんは言った。おじさんは一体どこで飲んできたんだ?
「そんな顔をするな、ここにパブはない。だが、呼ぶことはできる」
おじさんは着古したジャケットのポケットから、小さな小さなバイオリンを取り出した。
「フィドルだ」
マッチ棒みたいな弓を器用に指先で摘み、おじさんはフィドルとやらを演奏し始めた。それは思いのほか大きな音で、夕闇の田舎町に響いた。
呆気にとられていると、いつのまにやらアコーディオンの音色まで聞こえてくる。どんどん楽器が増えていく。
風が吹く。なんだかよい香りだ。
「ほら、そろそろ来るぞ、よーく見てな」
そう言われて、思わずパチクリ瞬きすると、そこはもう賑やかなパブの中なのだった。手にはウイスキーの入ったグラス。
おじさんはお客たちの合間を歩きながら、陽気にフィドルを弾いている。ミニチュアのフィドルじゃなくて、普通の大きさだ。
ウイスキーを一口飲み、顔を上げると、おじさんが近くまで来ていた。
「ほら、パブがやって来ただろう?」
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アイリッシュパブのほら話投稿作
松本楽志賞 受賞