2013年5月29日水曜日

初めて渚ちゃんの部屋に入ったのは、六年生の終わり頃だっただろうか。


彼女の部屋はベッドと机があるところ以外、全ての壁が本棚になっていた。


天井まで届く本棚は小柄な渚ちゃんを押しつぶしてしまいそうな圧倒感があった。


「図書館みたいだね」


と言うと彼女はちょっと嬉しそうに笑った。だけど、驚くべきだったのは大きな本棚ではなくて、そこに収まる本だったのだ。


すべての本のタイトルか作者の名前に「海」の文字が入っていた。『海洋生物の多様性』なんていう本から「加藤海」という作者の本もあった。とにかく、海が本棚から溢れていた。


渚という名前は、彼女のお母さんが付けたというのだが、私はついぞお母さんに会うことはなかった。玄関にはいつも大人用のヒールのある靴があったし、お母さん手作りだというお菓子も出てきたが、一度も顔を見ることはなかった。


私の母も「渚ちゃんのお母さん? そういえば、会ったことないわね」と言うのだった。


中学の三年間、私はすっかり渚ちゃんの部屋に入り浸って、海の付く本を読んで過ごした。時折、潮の香りや波の音が聞こえるのに気がついていたが、私は海を知らなかったから本当に潮の香りや波の音かどうかはわからない。それに、ここにいると波の音が聞こえるくらいは当たり前なことのように感じられるのだった。


 


渚の家は今は、ない。ある朝、渚の家があったところだけ、砂浜になっていた。海はここからずっと遠いのに、砂は濡れ、潮風が吹く。何度か砂浜を歩いてみようかと思ったが、止めた。きっとここは海に通じる何かなのだ。


家も渚も、お母さんも、海に帰りたかったのだろう。ずっとずっと帰りたくて、そしてとうとう叶ったのだろう。私はそう思っている。



2013年5月22日水曜日

朝靄の向こう側



いつも夢のなかでしか会うことが出来ないピエロに、「どうしたら本当に会える?」と尋ねたことがある。

本当に会いたかったのだけれども、ピエロを困らせる気持ちも幾分あった。私はまだ子供だったのだ。

ピエロはしかし、少しの戸惑いも見せなかった。その赤い鼻が揺れたり、大きな口が震えることはなかった。

「朝靄のうちに目覚めて、そこを通り抜けてきたら、会えるよ」

ピエロは大きく手を振って、私の夢から出て行ったきりだ。


2013年5月17日金曜日

胡桃割り人形の錯乱

あんぐりと口を開けて、胡桃を咥えた老兵隊は、有無も言わずにサーベルを振り回しながら町を駆けまわる。


「見ろ、兵隊がおかしくなっちまった」


町の人々は指をさして嗤う。


町の人の八割五分の嗤いが止まらなくなったところで、王様自ら老兵隊が咥えた胡桃を取り上げることになった。


老兵隊の咥えた胡桃は、王様がどんなに引っ張っても取れなかった。


口を開けろ、口を閉じろ、歯を食いしばるな、歯を食いしばれ。舌を出せ、舌を出すな。


王様は様々なことを言いながら、胡桃を引っ張ったが、どうにも取れない。


老兵隊はまたサーベルを振り回し始め、王様は胡桃から手が離れなくなり、町の人の九割五分の嗤いが止まらなくなった。



2013年5月14日火曜日

無題

垣根を潜って出てきた私を、隣家のおばあちゃんは「おや、大きな猫さんだこと」と笑って迎えてくれた。


私はチョコレート、おばあちゃんはお団子を用意して茶飲み話に花が咲く。


今は私がおばあちゃん。垣根から顔を覗かせる隣のおちびさんにおいでおいですると、目が輝いた。



5月14日ついのべの日 お題


無題

おじいさんの傘は、半分青くて、半分赤い。几帳面なおじいさんはきちんと青い方を右側にして傘を差す。


雨雲はそれが気になって、ついついおじいさんを追いかけてしまうから、おじいさんはいつも半分雨で、半分晴れ。



5月14日ついのべの日 お題


2013年5月12日日曜日

樹上鉱脈

その森は広大な鉱脈で、多くの貴重な鉱物が採れる。


もっとも多く採れるのは銀だが、それを採ることができるのは、選ばれたムササビだけだ。


この森の銀は、樹々の枝先から採れるのだった。冬の夜になると、月光に照らされて森は輝く。


選ばれしムササビは人間にリュックサックを作らせ、輝く枝先を目指して樹間を飛び回、銀を集める。


銀が詰めこまれたリュックサックは殊更に輝き、最盛期には流星をも圧倒する素早さでムササビたちは飛び回るのだ。


 



2013年5月7日火曜日

注意散漫

ペルーの老人は、シチューを作る妻の周りをウロウロしている。
そそっかしい妻は、パンと間違えてストーブで焼いてしまった。
なんて焦げ臭いこのペルーの老人。


There was an Old Man of Peru,
Who watched his wife making a stew;
But once by mistake,
In a stove she did bake,
That unfortunate Man of Peru

エドワード・リア 『ナンセンスの絵本』より

2013年5月4日土曜日

無題

庭の落ち葉を積み上げて積み上げて、生涯を掛け腐葉土山を作り続けた男の死後、頂上に向日葵が生える。