初めて渚ちゃんの部屋に入ったのは、六年生の終わり頃だっただろうか。
彼女の部屋はベッドと机があるところ以外、全ての壁が本棚になっていた。
天井まで届く本棚は小柄な渚ちゃんを押しつぶしてしまいそうな圧倒感があった。
「図書館みたいだね」
と言うと彼女はちょっと嬉しそうに笑った。だけど、驚くべきだったのは大きな本棚ではなくて、そこに収まる本だったのだ。
すべての本のタイトルか作者の名前に「海」の文字が入っていた。『海洋生物の多様性』なんていう本から「加藤海」という作者の本もあった。とにかく、海が本棚から溢れていた。
渚という名前は、彼女のお母さんが付けたというのだが、私はついぞお母さんに会うことはなかった。玄関にはいつも大人用のヒールのある靴があったし、お母さん手作りだというお菓子も出てきたが、一度も顔を見ることはなかった。
私の母も「渚ちゃんのお母さん? そういえば、会ったことないわね」と言うのだった。
中学の三年間、私はすっかり渚ちゃんの部屋に入り浸って、海の付く本を読んで過ごした。時折、潮の香りや波の音が聞こえるのに気がついていたが、私は海を知らなかったから本当に潮の香りや波の音かどうかはわからない。それに、ここにいると波の音が聞こえるくらいは当たり前なことのように感じられるのだった。
渚の家は今は、ない。ある朝、渚の家があったところだけ、砂浜になっていた。海はここからずっと遠いのに、砂は濡れ、潮風が吹く。何度か砂浜を歩いてみようかと思ったが、止めた。きっとここは海に通じる何かなのだ。
家も渚も、お母さんも、海に帰りたかったのだろう。ずっとずっと帰りたくて、そしてとうとう叶ったのだろう。私はそう思っている。