底の抜けた香水瓶、回らないろくろ、肋骨が二本折れた骨格標本、穴の空いたガスマスク、インクの出ないカラーペン、三十八年前のカレンダー、モザイクが赤く塗られたヌード写真の束。
彼女の部屋には何に使うのか解らないものが散らかって足の踏み場もない。
使い途がないからこそ愛しいのだ、と彼女は言う。
「効率的で有益な物ほど信用できないものはないの」
と彼女は僕の脇腹に舌を這わせながら、きっぱりと言った。
今、効率を求めるなら触って欲しいのはそこじゃない。全く徹底しているよね。きっと僕も取り立てて使い途がない愛しいもの、なんだろう。
と、天井にぶら下がった夥しい数のゴワゴワに固まった筆を眺めながら、苦笑いする。
2008年12月28日日曜日
2008年12月26日金曜日
2008年12月23日火曜日
2008年12月21日日曜日
2008年12月20日土曜日
ジングルベルが聞こえない
クリスマスイヴまであと四日だというのに、商店街からもラジオからも、クリスマスソングが一向に聞こえてこない。
どうにも気分が盛り上がらなくていかん、と思ったので小学生の時に買ったクリスマスソングのレコードを引っ張り出してきた。
針を落としてもチリチリピチピチいうだけで何も音楽は流れてこない、ぐるぐる回る黒い円盤を眺めて数十分、B面にひっくり返してまた数十分。とうとうクリスマスソングは一節も聴こえなかった。
ならば大声で唄おう、ジングルベルを。
往来に出て唄い始めたが、僕の口から出てきたのはジングルベル、ではなかった。
「サンタクロースはぎっくり腰につき、クリスマスを延期する。しばし待たれよ」
よく響くテノールの声だった。
どうにも気分が盛り上がらなくていかん、と思ったので小学生の時に買ったクリスマスソングのレコードを引っ張り出してきた。
針を落としてもチリチリピチピチいうだけで何も音楽は流れてこない、ぐるぐる回る黒い円盤を眺めて数十分、B面にひっくり返してまた数十分。とうとうクリスマスソングは一節も聴こえなかった。
ならば大声で唄おう、ジングルベルを。
往来に出て唄い始めたが、僕の口から出てきたのはジングルベル、ではなかった。
「サンタクロースはぎっくり腰につき、クリスマスを延期する。しばし待たれよ」
よく響くテノールの声だった。
2008年12月19日金曜日
猫を飼えばよかった話
「子猫を貰ってくれませんか」
と十七歳の娘に言われた。紺色のブレザーの制服は随分くたびれている。そのせいだけでなく、どことなく生活臭の漂う、小母さんのような十七だ。
猫はまだ二ヶ月くらいで、肉付きのよい娘の胸に抱かれていた。キジトラの、丸い目をした子猫だった。
「うちでは飼えないよ、アパートなんだ。おまけに、小鳥がいるからね。きっと猫は小鳥を襲ってしまうよ。今はまだ大丈夫だろう。小鳥のほうが早く逃げる。けれど、猫はすぐに大きくなって、小鳥を食べたがるに決まっているんだ。僕は小鳥が猫に食べられるところは見たくない。黄色い小さな羽がバサバサと飛び散るのを、君だって見たくはないだろう?」
十七歳の小母さんみたいな娘は、尤だという顔して「他をあたってみます」と小母さんそのものの声で言うと立ち去った。
アパートに帰って、鳥籠を覗くと、小鳥は一羽も居なかった。籠の中では、鼠がチョロチョロと動き回っているだけだった。僕は頭を抱えた。やっぱり猫を引き取ればよかったのだ、と思った。
と十七歳の娘に言われた。紺色のブレザーの制服は随分くたびれている。そのせいだけでなく、どことなく生活臭の漂う、小母さんのような十七だ。
猫はまだ二ヶ月くらいで、肉付きのよい娘の胸に抱かれていた。キジトラの、丸い目をした子猫だった。
「うちでは飼えないよ、アパートなんだ。おまけに、小鳥がいるからね。きっと猫は小鳥を襲ってしまうよ。今はまだ大丈夫だろう。小鳥のほうが早く逃げる。けれど、猫はすぐに大きくなって、小鳥を食べたがるに決まっているんだ。僕は小鳥が猫に食べられるところは見たくない。黄色い小さな羽がバサバサと飛び散るのを、君だって見たくはないだろう?」
十七歳の小母さんみたいな娘は、尤だという顔して「他をあたってみます」と小母さんそのものの声で言うと立ち去った。
アパートに帰って、鳥籠を覗くと、小鳥は一羽も居なかった。籠の中では、鼠がチョロチョロと動き回っているだけだった。僕は頭を抱えた。やっぱり猫を引き取ればよかったのだ、と思った。
2008年12月14日日曜日
ご清聴ありがとう
朗読者が口を開くと中からひょっこりと小さなピエロが出てきたのだった。周りを見回したが、誰も驚いた様子はない。ピエロが見えていないのか、当たり前の光景なのかはわからない。
ピエロはマイクにちょこんと腰を下ろし、朗読を聴いている。時に頷き、時に可笑しそうに笑いながら。ピエロを見るのに夢中だったのにも関わらず、朗読者の声は、私の耳にとろとろと流れ込み、鮮やかに世界を造った。私はピエロと同じように頷き、多いに笑った。
朗読者が最後の一声を発し終わる寸前、ピエロはくるんとお辞儀をしてから朗読者の口内に飛び込んだ。
観客の拍手に応えて朗読者は頭を下げる。それはピエロとそっくりのくるんとしたお辞儀だった。
てんとう虫の呪文フライヤー用書き下ろし@西荻ブックマーク「超短編の世界」
ピエロはマイクにちょこんと腰を下ろし、朗読を聴いている。時に頷き、時に可笑しそうに笑いながら。ピエロを見るのに夢中だったのにも関わらず、朗読者の声は、私の耳にとろとろと流れ込み、鮮やかに世界を造った。私はピエロと同じように頷き、多いに笑った。
朗読者が最後の一声を発し終わる寸前、ピエロはくるんとお辞儀をしてから朗読者の口内に飛び込んだ。
観客の拍手に応えて朗読者は頭を下げる。それはピエロとそっくりのくるんとしたお辞儀だった。
てんとう虫の呪文フライヤー用書き下ろし@西荻ブックマーク「超短編の世界」
2008年12月13日土曜日
2008年12月12日金曜日
光の海
浮かぶのに、ちょっとした勇気とコツが要るのは、塩水の海と同様だ。
けれども、塩水の海のように手足を振り回すことも、醜い面で息継ぎをする必要もない。
それは初めのうち、僕をひどく混乱させた。手足を動かして体勢を整えることが何の意味も持たないことを理解するまで、随分かかった。
つまり、身体を動かそうと動かすまいと、一切状況は変わらないのだ。
必要なのは光で、光有れと願うことだけだった。
僕はこの海に飛び込んだ理由を思い出していた。夜空を白くする程に眩ゆい光が溢れ、僕はかつてない胸の高鳴りを覚えたのだ。昨日まで何よりも美しいと感じていた夜空の月も星も、その存在すら忘れていた。
ふと、眼下に影があることに気付く。それは僕の影で、その影があまりにくっきりと正しい黒なので、ほんの一瞬見惚れた僕は、忽ち海の底よりも深くに沈んでいく。
けれども、塩水の海のように手足を振り回すことも、醜い面で息継ぎをする必要もない。
それは初めのうち、僕をひどく混乱させた。手足を動かして体勢を整えることが何の意味も持たないことを理解するまで、随分かかった。
つまり、身体を動かそうと動かすまいと、一切状況は変わらないのだ。
必要なのは光で、光有れと願うことだけだった。
僕はこの海に飛び込んだ理由を思い出していた。夜空を白くする程に眩ゆい光が溢れ、僕はかつてない胸の高鳴りを覚えたのだ。昨日まで何よりも美しいと感じていた夜空の月も星も、その存在すら忘れていた。
ふと、眼下に影があることに気付く。それは僕の影で、その影があまりにくっきりと正しい黒なので、ほんの一瞬見惚れた僕は、忽ち海の底よりも深くに沈んでいく。
2008年12月10日水曜日
2008年12月9日火曜日
2008年12月7日日曜日
2008年12月3日水曜日
2008年12月2日火曜日
2008年11月30日日曜日
2008年11月29日土曜日
黒い羊
やっと手に入ったの、毛糸。そう、黒い羊の。予約して、何ヵ月待ったっけ?
六日前に届いて、大急ぎで編み上げて、すぐに達也にプレゼントしたの。もちろんマフラー。すっかり暖かくなっちゃって、もうマフラーなんて季節外れだけど、たっくん、すごく喜んでた。こめかみがひくひくしてた。
「さっそく、巻いてもいい?」って訊くから
「早く早く!」って、おねだりしちゃった。
首に掛けるとすぐに、ぐっとマフラーが絞まった。達也、みるみるうちに顔が真っ青になって……。あっという間の出来事だった。
黒い羊の呪い、効果バツグンだよ?祐子も試してみなよ。
********************
500文字の心臓 第81回タイトル競作投稿作
○3
六日前に届いて、大急ぎで編み上げて、すぐに達也にプレゼントしたの。もちろんマフラー。すっかり暖かくなっちゃって、もうマフラーなんて季節外れだけど、たっくん、すごく喜んでた。こめかみがひくひくしてた。
「さっそく、巻いてもいい?」って訊くから
「早く早く!」って、おねだりしちゃった。
首に掛けるとすぐに、ぐっとマフラーが絞まった。達也、みるみるうちに顔が真っ青になって……。あっという間の出来事だった。
黒い羊の呪い、効果バツグンだよ?祐子も試してみなよ。
********************
500文字の心臓 第81回タイトル競作投稿作
○3
2008年11月26日水曜日
2008年11月25日火曜日
2008年11月24日月曜日
2008年11月23日日曜日
2008年11月22日土曜日
2008年11月20日木曜日
ピース!
朝起きると、トキメキが躰を支配していた。
もしや恋でもしたのだろうかと考えてみたけれど、女といえば、母親とバイト先のおばちゃんの顔しか出てこない。女っ気がないのは俺が一番よく知ってるんだ、チキショ。
何かいい夢でも見たっけ、と考えてみたが、さっきまで見ていたのはバイトに遅刻する夢だった。ちょっと焦って時間を確認する。大丈夫、寝坊はしてない。
夢でいい思いをしたわけでもないなら、このトキメキはなんだ。苛立ちさえ覚えるのに、トキメキはどんどん膨らむ一方で、着替えていてもカレンダーを見てもドキドキワクワクソワソワ。
この理由なきトキメキの理由をなんとか見つけだしてやる、待ってろよ!
そう思ったら、また胸がキュンとした。
もしや恋でもしたのだろうかと考えてみたけれど、女といえば、母親とバイト先のおばちゃんの顔しか出てこない。女っ気がないのは俺が一番よく知ってるんだ、チキショ。
何かいい夢でも見たっけ、と考えてみたが、さっきまで見ていたのはバイトに遅刻する夢だった。ちょっと焦って時間を確認する。大丈夫、寝坊はしてない。
夢でいい思いをしたわけでもないなら、このトキメキはなんだ。苛立ちさえ覚えるのに、トキメキはどんどん膨らむ一方で、着替えていてもカレンダーを見てもドキドキワクワクソワソワ。
この理由なきトキメキの理由をなんとか見つけだしてやる、待ってろよ!
そう思ったら、また胸がキュンとした。
2008年11月18日火曜日
2008年11月16日日曜日
2008年11月15日土曜日
2008年11月14日金曜日
2008年11月12日水曜日
2008年11月11日火曜日
ジングルベルが鳴る前に
サンタクロースは世の人々がクリスマスを思い浮かべる前に、すべての支度を済ませなければならない。
なのに、年々イルミネーションの点灯は早くなるから(おまけに派手になっているときてる!)、サンタクロースは早々にその支度を終えて、暇を持て余している。
トナカイたちもずいぶんと前から起こされソリに繋がれる。
サンタクロースもトナカイも、プレゼントまでもが待ち草臥れて、イヴの晩にはぐったりだ。
主の平和、新鮮なクリスマスを望みなさい。
なのに、年々イルミネーションの点灯は早くなるから(おまけに派手になっているときてる!)、サンタクロースは早々にその支度を終えて、暇を持て余している。
トナカイたちもずいぶんと前から起こされソリに繋がれる。
サンタクロースもトナカイも、プレゼントまでもが待ち草臥れて、イヴの晩にはぐったりだ。
主の平和、新鮮なクリスマスを望みなさい。
2008年11月8日土曜日
2008年11月7日金曜日
2008年11月5日水曜日
2008年11月4日火曜日
2008年11月1日土曜日
マリーの部屋
十二の誕生日に、マリーは「博士」からモノクロの薔薇が写った大きなポスターを贈られた。
窓のない壁、白いベッドとデスク、映りの悪い古い白黒テレビがあるだけの部屋が少女の世界の全てだった。大きな平面の薔薇は、生まれて初めて得た装飾だった。
まもなくマリーは「赤」を知り、ポスターの薔薇の花びらを塗ることを覚える。己が股間をまさぐった手指で薔薇を撫で続けた。数日して赤が少なくなると、深く指を入れて抉り取ろうとした。マリーは薔薇が赤いとは知らない。赤の他も知らない。けれども、そうしていると重怠い身体が鎮まるような気がした。
巨大な薔薇の花は月毎にその赤を上塗りされ、甘くすえた臭いを放つ。
窓のない壁、白いベッドとデスク、映りの悪い古い白黒テレビがあるだけの部屋が少女の世界の全てだった。大きな平面の薔薇は、生まれて初めて得た装飾だった。
まもなくマリーは「赤」を知り、ポスターの薔薇の花びらを塗ることを覚える。己が股間をまさぐった手指で薔薇を撫で続けた。数日して赤が少なくなると、深く指を入れて抉り取ろうとした。マリーは薔薇が赤いとは知らない。赤の他も知らない。けれども、そうしていると重怠い身体が鎮まるような気がした。
巨大な薔薇の花は月毎にその赤を上塗りされ、甘くすえた臭いを放つ。
2008年10月31日金曜日
2008年10月30日木曜日
2008年10月27日月曜日
2008年10月26日日曜日
2008年10月24日金曜日
2008年10月22日水曜日
2008年10月18日土曜日
2008年10月17日金曜日
た #ddb277
筍と玉ねぎの竜田揚げを食べながら、黄昏れていた。「誕生日だからといって宝物をたくさんくれるのは短絡すぎやしないか?」
溜め息が聞こえたのか、たちまち台風が大変なことになった。
高床式の家は堪えられず助けを呼ぶが誰もが戯言と、取り合わない。太平洋にタイミングよくダイブしてタラバガニに叩きつけられた。これだからタンコブが絶えない。また、溜め息。
「た」#ddb277
溜め息が聞こえたのか、たちまち台風が大変なことになった。
高床式の家は堪えられず助けを呼ぶが誰もが戯言と、取り合わない。太平洋にタイミングよくダイブしてタラバガニに叩きつけられた。これだからタンコブが絶えない。また、溜め息。
「た」#ddb277
2008年10月15日水曜日
そ #00a5e2
村長の葬式では、ソクラテスをそそのかして粗悪なソルティードッグを呑ませてから、添い寝するがいいさ。
そうすりゃあ、葬式代の損失額はそれほどにはならないし、ソムリエだってソフトクリームを即座に供え物にできる。
空に還るだけだ、そんなもんよ。
「そ」#00a5e2
そうすりゃあ、葬式代の損失額はそれほどにはならないし、ソムリエだってソフトクリームを即座に供え物にできる。
空に還るだけだ、そんなもんよ。
「そ」#00a5e2
2008年10月13日月曜日
せ #a8e5ce
先だって仙台で蝉の世界選手権が行われた。
占星術対セラピスト、セクシーポーズ対セールストーク。
せめぎあい、競り合う蝉たちの背中は戦士のように切ない。
蝉をせせら笑うなら、せいぜい聖書を精読してからにしな。
「せ」#a8e5ce
占星術対セラピスト、セクシーポーズ対セールストーク。
せめぎあい、競り合う蝉たちの背中は戦士のように切ない。
蝉をせせら笑うなら、せいぜい聖書を精読してからにしな。
「せ」#a8e5ce
2008年10月11日土曜日
2008年10月10日金曜日
す #f9ff3f
雀の巣で涼んでいると、鈴なりの西瓜をぶら下げて寿司屋がスクーターでやってきた。
「少し酸っぱいですよ」
と寿司屋が言うのですりおろして啜って食べた。
隅々まで吸い上げると、相撲取りがスフィンクスと寸劇をするのが透けて見えた。
「す」#f9ff3f
「少し酸っぱいですよ」
と寿司屋が言うのですりおろして啜って食べた。
隅々まで吸い上げると、相撲取りがスフィンクスと寸劇をするのが透けて見えた。
「す」#f9ff3f
2008年10月8日水曜日
し #f4ffff
しわくちゃの下着を写真に撮って調べていたら、知らない歯科医を紹介された。
歯科医の審判により、真実の椎茸を試食すると、下着のシワは思春期の司法書士の仕業だとわかった。
しらばっくれる司法書士をしごいて尻拭いをさせる。
信濃川の清水で下着を始末すれば、しっかりシワが取れて幸せ。
「し」#f4ffff
歯科医の審判により、真実の椎茸を試食すると、下着のシワは思春期の司法書士の仕業だとわかった。
しらばっくれる司法書士をしごいて尻拭いをさせる。
信濃川の清水で下着を始末すれば、しっかりシワが取れて幸せ。
「し」#f4ffff
2008年10月6日月曜日
さ #edf2ff
淋しいと叫びたい寒空なのに、さっき最後の酒が尽きてしまった。
さしあたり、栄螺のサンドイッチしかない。鮭のサーロインステーキはサウジアラビアのサーカス団に差し入れてしまった。
散々、彷徨った。さまざまな災難を避けてきた。最後に着いたのは、砂漠だった。
三月のサハラに、桜は咲かない。
「さ」#edf2ff
さしあたり、栄螺のサンドイッチしかない。鮭のサーロインステーキはサウジアラビアのサーカス団に差し入れてしまった。
散々、彷徨った。さまざまな災難を避けてきた。最後に着いたのは、砂漠だった。
三月のサハラに、桜は咲かない。
「さ」#edf2ff
2008年10月5日日曜日
こ #000000
根拠のない古文書にはこうある。
「凍える黄砂に呼応して、恋物語は粉々になる」
困った子羊ちゃんは琥珀のコルセットでこれでもかと腰を膠着した。木陰で小刻みに鼓膜を震わせ、恋人と言葉を交換した痕跡はここにはない。
混迷する骨盤が恍惚とする間は、木枯らしが来ないだろう。
「こ」#000000
「凍える黄砂に呼応して、恋物語は粉々になる」
困った子羊ちゃんは琥珀のコルセットでこれでもかと腰を膠着した。木陰で小刻みに鼓膜を震わせ、恋人と言葉を交換した痕跡はここにはない。
混迷する骨盤が恍惚とする間は、木枯らしが来ないだろう。
「こ」#000000
二人だけの秘密
小学一年生の時、転校してきて転校していった男の子がいた。苗字は覚えているけれど、果たして正しい記憶かどうか。
ヘラヘラして垢抜けない少し変な(それまでに会ったことのないタイプ)子だった。クラスも最後まで完全には彼を受け入れていなかったと思う。
転校してきた日、家が近くだった私は彼と下校するように言われて、ひどく憂鬱だった。けれども、それ以降毎日二人で帰ることとなる。示し合わせるわけでもなく、ごく当たり前に二人並んで歩いた。幼すぎる猥談でゲラゲラと笑いながら。帰り道だけの、二人だけの時間。邪魔されたくなかった。
「夏になると早く冬になれ、冬になると早く夏になれって思うよね」
と、珍しくしんみりと語り合ったのはいつの季節だったのだろう。
たぶん一緒に過ごしたのは夏でも冬でもないほんの短い間だったのだ。
名簿にも写真にも彼の痕跡は残っていない。この記憶を裏付けてくれるものは、何一つない。あの男の子との思い出は幻なのかもしれない。
鮮やか過ぎる彼の面影を仕舞う術を私は持たない。彼もまた私との帰り道を思い出すことがあるのだろうか、あって欲しいと願う度に、彼の存在の不確かさに絶望する。
ヘラヘラして垢抜けない少し変な(それまでに会ったことのないタイプ)子だった。クラスも最後まで完全には彼を受け入れていなかったと思う。
転校してきた日、家が近くだった私は彼と下校するように言われて、ひどく憂鬱だった。けれども、それ以降毎日二人で帰ることとなる。示し合わせるわけでもなく、ごく当たり前に二人並んで歩いた。幼すぎる猥談でゲラゲラと笑いながら。帰り道だけの、二人だけの時間。邪魔されたくなかった。
「夏になると早く冬になれ、冬になると早く夏になれって思うよね」
と、珍しくしんみりと語り合ったのはいつの季節だったのだろう。
たぶん一緒に過ごしたのは夏でも冬でもないほんの短い間だったのだ。
名簿にも写真にも彼の痕跡は残っていない。この記憶を裏付けてくれるものは、何一つない。あの男の子との思い出は幻なのかもしれない。
鮮やか過ぎる彼の面影を仕舞う術を私は持たない。彼もまた私との帰り道を思い出すことがあるのだろうか、あって欲しいと願う度に、彼の存在の不確かさに絶望する。
2008年10月4日土曜日
2008年10月3日金曜日
2008年9月30日火曜日
2008年9月28日日曜日
2008年9月26日金曜日
解剖学的嗅ぎ煙草入れ
煙草入れが煙草の解剖をすっかり終えるのに、五分とかからない。その頃には煙草を鼻に入れたって何の味も香りもしないはずなのだが、三郎さんは実に満足そうに嗅いでいる。煙草入れはそれが不思議で仕方ないのだけれど、三郎さんは煙草入れには入れないので、煙草入れは三郎さんを解剖できずにいる。
2008年9月25日木曜日
2008年9月24日水曜日
2008年9月22日月曜日
お #000000
惜しみなく音楽を送り続ける。
大きすぎるオルガンがオギュスタ・オルメスをオートマチックで演奏する。
オランウータンがお馴染みの音頭でお尻を振っている。
遅かれ早かれオルゴールにも汚染が及び、踊り始めるだろう、とお月さまのお告げがあった。
思わず雄叫びを上げたオランウータンは、己の大声に驚いて、落ち込んでいる。
「お」#000000
大きすぎるオルガンがオギュスタ・オルメスをオートマチックで演奏する。
オランウータンがお馴染みの音頭でお尻を振っている。
遅かれ早かれオルゴールにも汚染が及び、踊り始めるだろう、とお月さまのお告げがあった。
思わず雄叫びを上げたオランウータンは、己の大声に驚いて、落ち込んでいる。
「お」#000000
2008年9月19日金曜日
2008年9月18日木曜日
やさしいこうげき
コスモス畑できみを見失った。コスモスは僕の背丈よりずっと高く、見渡すことができない。
硬い茎を掻き分けながら歩きまわり、只管にきみの名を呼び続けたが、ぼくの声は全部コスモスの花が吸い取ってしまう。
諦めてしゃがみ込んだ。座ったまま見上げるとますますコスモスは高く、空は切れ切れにしか見えない。
きみとの距離が少し離れつつあることは気がついていたけれど、何もコスモスの中で失うことはないじゃないか。
独りごちると一斉にコスモスがこちらを向いたのがわかった。
ぼくはコスモスに潰されかかっている。ピンク一色かと思っていたコスモスは、よく見れば色とりどりだ。白もピンクも濃いピンクも。模様入りも、グラデーションも。
このまま潰されるのも悪くないかなと思いながら、目を閉じた。
硬い茎を掻き分けながら歩きまわり、只管にきみの名を呼び続けたが、ぼくの声は全部コスモスの花が吸い取ってしまう。
諦めてしゃがみ込んだ。座ったまま見上げるとますますコスモスは高く、空は切れ切れにしか見えない。
きみとの距離が少し離れつつあることは気がついていたけれど、何もコスモスの中で失うことはないじゃないか。
独りごちると一斉にコスモスがこちらを向いたのがわかった。
ぼくはコスモスに潰されかかっている。ピンク一色かと思っていたコスモスは、よく見れば色とりどりだ。白もピンクも濃いピンクも。模様入りも、グラデーションも。
このまま潰されるのも悪くないかなと思いながら、目を閉じた。
2008年9月17日水曜日
え #f791ba
遠慮がちなエッチな映画を閲覧した。
エキゾチックな絵描きさんとエコノミストの駅員がエスカレーターで、えもいわれぬエロチックなエスプリで結ばれる話だ。
絵描きさんは駅員さんのえくぼに、駅員さんは絵描きさんの臙脂色のエナメル靴に微笑みかけた。
得体の知れない映像が延々と流れる。
エクスタシーは永遠に得られない。
「え」#f791ba
エキゾチックな絵描きさんとエコノミストの駅員がエスカレーターで、えもいわれぬエロチックなエスプリで結ばれる話だ。
絵描きさんは駅員さんのえくぼに、駅員さんは絵描きさんの臙脂色のエナメル靴に微笑みかけた。
得体の知れない映像が延々と流れる。
エクスタシーは永遠に得られない。
「え」#f791ba
2008年9月15日月曜日
う #96828c
海に浮かぶ馬はウクレレが上手い。自惚れ屋の馬は人も羨む美しいうなじに挿した鱗を輝かせながら、ウクレレ片手に歌を歌う。
海原の馬を宇宙からうっとりと見つめるのは、牛飼い座に生まれた胡散臭いウサギである。
ウサギはウクレレも歌も上手くない。馬を眺めるほかは、うとうととうたた寝をするか、薄気味悪い占いをして現つを抜かしている。
「う」#96828c
海原の馬を宇宙からうっとりと見つめるのは、牛飼い座に生まれた胡散臭いウサギである。
ウサギはウクレレも歌も上手くない。馬を眺めるほかは、うとうととうたた寝をするか、薄気味悪い占いをして現つを抜かしている。
「う」#96828c
いつか見た夢
「夢でなら、いつだって逢っているじゃないか。こうして」
と、きみは言った。
きみに逢える夢は、いつも岩だらけで色のない場所。花や蝶を愛でることも、水辺で遊ぶこともできない。強い風が吹く岩場で足の裏の痛みに耐え、立ち尽くしたまま大声で言葉を交わす。
「だから!ぼくの夢は、夢の中だけでは終わらないことなの!」
ここじゃ手も繋げない。そんなのはイヤだ。
言おうとしたところで、目が覚めた。ポロポロと涙が溢れる。
そうだ、夢は叶ったんだ。きみの背中に顔を埋める。まだまだ涙は溢れ出て、ぼくの涙はどんどんきみの背中を転がり落ちる。シーツの色が変わる。
きみはまだ眠っている。もう夢の中にぼくはいないはずなのに。
ぼくは花瓶に花を絶やさない。ここはもう夢じゃないから。
と、きみは言った。
きみに逢える夢は、いつも岩だらけで色のない場所。花や蝶を愛でることも、水辺で遊ぶこともできない。強い風が吹く岩場で足の裏の痛みに耐え、立ち尽くしたまま大声で言葉を交わす。
「だから!ぼくの夢は、夢の中だけでは終わらないことなの!」
ここじゃ手も繋げない。そんなのはイヤだ。
言おうとしたところで、目が覚めた。ポロポロと涙が溢れる。
そうだ、夢は叶ったんだ。きみの背中に顔を埋める。まだまだ涙は溢れ出て、ぼくの涙はどんどんきみの背中を転がり落ちる。シーツの色が変わる。
きみはまだ眠っている。もう夢の中にぼくはいないはずなのに。
ぼくは花瓶に花を絶やさない。ここはもう夢じゃないから。
2008年9月13日土曜日
い #fffced
イタリアで一番人気の石ころは、未だに池から出られずに苛々している。
イメージチェンジだと威張りちらして、一張羅にイヤリングもつけ勇んでみた。
如何ともしがたいいまいちな石ころの出立ちに、イタリア中が居眠りで悼む。
「い」#fffced
イメージチェンジだと威張りちらして、一張羅にイヤリングもつけ勇んでみた。
如何ともしがたいいまいちな石ころの出立ちに、イタリア中が居眠りで悼む。
「い」#fffced
2008年9月12日金曜日
あ #ffe842
アイスクリームとあんみつを平らげたあと、赤裸のあたしの足首を持ち上げて頭を入れる。
あなたがあれやこれやと味見をするから、あっという間に汗だくになる。
「あんまり甘いものを愛すると、あらゆるところに蟻が溢れるよ」
と煽っても、あなたは相変わらず天邪鬼だ。ありがとう、とだけ挨拶してあっちへ行ってしまう。明日まで逢えない。
「あ」#ffe842
あなたがあれやこれやと味見をするから、あっという間に汗だくになる。
「あんまり甘いものを愛すると、あらゆるところに蟻が溢れるよ」
と煽っても、あなたは相変わらず天邪鬼だ。ありがとう、とだけ挨拶してあっちへ行ってしまう。明日まで逢えない。
「あ」#ffe842
2008年9月10日水曜日
鐘尽堂動物園
キリンの首が長いのは、みなさんよくご存知でしょうが、ここの園のキリンの首といったら、長いの長くないのって。
ただ長いだけじゃあ、ありませんよ。自在に伸びてあっちへくねくね、こっちにくねくね、よく動き回ります。
キリンのろくろ首? しぃ。それは言わない約束ですよ、和江はひどく怒りますから。
和江は、賢くて気立てのいい奴です。四六時中長い首で園を見廻って、園内の動物の世話を焼いてくれる。皆慕ってますよ。たびたび私のところへやって来ては、やれ象の松助さんが下痢気味だ、チンパンジーの千代さんが悋気の虫だ、フラミンゴの三郎くんが骨折した、と逐一報せてくれます。
「せんせ、かあいそうだから、すぐ行って見てやっておくれよ」
てなことを言いますよ。
えぇ、獣医を始めてかれこれ三百……何年でしたかな。ここへ来てから百八十八年、こんなに楽させてもらってる園はありませんよ。
おっと、閉園の鐘が鳴りましたな。鳴り終わる前にお帰り下さい。え? なんと、おたくさんには聞こえないと。それはいけません。
和江、ちょっと。ライオンの銀二を呼んできておくれ。あぁ、そうだ、ご馳走だよ。こちらのお客さまだ。
ただ長いだけじゃあ、ありませんよ。自在に伸びてあっちへくねくね、こっちにくねくね、よく動き回ります。
キリンのろくろ首? しぃ。それは言わない約束ですよ、和江はひどく怒りますから。
和江は、賢くて気立てのいい奴です。四六時中長い首で園を見廻って、園内の動物の世話を焼いてくれる。皆慕ってますよ。たびたび私のところへやって来ては、やれ象の松助さんが下痢気味だ、チンパンジーの千代さんが悋気の虫だ、フラミンゴの三郎くんが骨折した、と逐一報せてくれます。
「せんせ、かあいそうだから、すぐ行って見てやっておくれよ」
てなことを言いますよ。
えぇ、獣医を始めてかれこれ三百……何年でしたかな。ここへ来てから百八十八年、こんなに楽させてもらってる園はありませんよ。
おっと、閉園の鐘が鳴りましたな。鳴り終わる前にお帰り下さい。え? なんと、おたくさんには聞こえないと。それはいけません。
和江、ちょっと。ライオンの銀二を呼んできておくれ。あぁ、そうだ、ご馳走だよ。こちらのお客さまだ。
2008年9月8日月曜日
2008年9月5日金曜日
先生の言う通りに
友達のちょっかいが癪に触ったのだろう、今にも暴れだしそうな少年を先生は肩を掴み、しっかりと見つめる。
「ほら、深呼吸して。先生の目を見てごらん」
はじめは顔を反らしていた少年も、しばらく見つめられているうちに根負けしたのか、ようやく先生に顔を向けた。
少年は先生の眸にイルカが浮かんでいるのを見た。イルカは少年に気がつくと、飛び上がってくるんと回ってみせた。
「イルカ……?」
そう呟くと、イルカは水に潜ってしまう。目の前には先生の顔があるだけ。
気がつくとあれほどドクドク騒いでいた心臓も落ち着いている。
「もう大丈夫だね、席に戻りなさい」
もう一度、先生の顔を覗き込むが、急に恥ずかしくなったのか、少年は黙って席に戻る。
「ほら、深呼吸して。先生の目を見てごらん」
はじめは顔を反らしていた少年も、しばらく見つめられているうちに根負けしたのか、ようやく先生に顔を向けた。
少年は先生の眸にイルカが浮かんでいるのを見た。イルカは少年に気がつくと、飛び上がってくるんと回ってみせた。
「イルカ……?」
そう呟くと、イルカは水に潜ってしまう。目の前には先生の顔があるだけ。
気がつくとあれほどドクドク騒いでいた心臓も落ち着いている。
「もう大丈夫だね、席に戻りなさい」
もう一度、先生の顔を覗き込むが、急に恥ずかしくなったのか、少年は黙って席に戻る。
2008年9月2日火曜日
ものしり博士と船旅
「ぽっぽー!」
と言って、ぼくたちの船は誰にも見送られないまま出航した。
ぽっぽー、と叫んだのは博士だ。なぜならこの中古の船は警笛が壊れていて、鳴らそうとすると「鳩ぽっぽ」を歌いだすからだ。
出航の警笛が鳩ぽっぽでは格好がつかない、と博士は言うけれど、博士の声の警笛はもっと格好がついてなかったと思う。
ともかく、ものしり博士とぼくは海に出た。博士は港で遊ぶぼくを助手に任命した。
「私は世間でものしり博士と呼ばれているから、海の旅も困ることはない、任せなさい」
けれども、博士がものしりかどうか、ぼくは早くも疑っている。
だって博士は、面舵いっぱい! って言いながら左に進んでるもの。
と言って、ぼくたちの船は誰にも見送られないまま出航した。
ぽっぽー、と叫んだのは博士だ。なぜならこの中古の船は警笛が壊れていて、鳴らそうとすると「鳩ぽっぽ」を歌いだすからだ。
出航の警笛が鳩ぽっぽでは格好がつかない、と博士は言うけれど、博士の声の警笛はもっと格好がついてなかったと思う。
ともかく、ものしり博士とぼくは海に出た。博士は港で遊ぶぼくを助手に任命した。
「私は世間でものしり博士と呼ばれているから、海の旅も困ることはない、任せなさい」
けれども、博士がものしりかどうか、ぼくは早くも疑っている。
だって博士は、面舵いっぱい! って言いながら左に進んでるもの。
2008年9月1日月曜日
2008年8月30日土曜日
緊急事態と私
タツマキ警報が出された。避難を呼び掛けるスピーカーのポールにお猿のようによじ登る。
「南西から巨大タツマキが接近中であります。町民の皆さま方におかれましては、速やかな避難をお願い申し上げます」
スピーカーから聞こえる避難勧告が私の耳をつんざく。
「あと数分でタツマキが我が町を通過します。今から避難してももう間に合わない。責任取れません」
スピーカーはまるで私を非難するように喚く。スピーカーを支えるポールがぐらぐらと揺れるのは、タツマキのせいで風が強くなったからか、スピーカーが私を振り落としたいからか。
ようやくタツマキが見えてきて、私は指笛を鳴らす。呼応するように、タツマキがこちらに向かってくる。
タイミングをはかって、両手を離す。タツマキがぐるんと私を飲み込む。
「いらっしゃい」
懐かしい声。久しぶりだね、リュウの小父さん。
私と小父さんはぐるぐると廻りながら再会を喜ぶ。
「南西から巨大タツマキが接近中であります。町民の皆さま方におかれましては、速やかな避難をお願い申し上げます」
スピーカーから聞こえる避難勧告が私の耳をつんざく。
「あと数分でタツマキが我が町を通過します。今から避難してももう間に合わない。責任取れません」
スピーカーはまるで私を非難するように喚く。スピーカーを支えるポールがぐらぐらと揺れるのは、タツマキのせいで風が強くなったからか、スピーカーが私を振り落としたいからか。
ようやくタツマキが見えてきて、私は指笛を鳴らす。呼応するように、タツマキがこちらに向かってくる。
タイミングをはかって、両手を離す。タツマキがぐるんと私を飲み込む。
「いらっしゃい」
懐かしい声。久しぶりだね、リュウの小父さん。
私と小父さんはぐるぐると廻りながら再会を喜ぶ。
2008年8月26日火曜日
2008年8月24日日曜日
腐れ鼻【伸縮怪談】
【500字】
血の臭い、死体の臭い、女の匂い。それだけがおれの知っている匂いだ。
遠い昔に腐れ鼻に冒されて、鼻はもげてなくなった。二本足で歩く牝の獣。毛深くて碧眼のあれが、霧深い山で遭難したおれを助けてくれた。霧が晴れるまで、おれはあれに抱きついて離れなかった。あれが腐れ鼻だったのだと気が付くまでずいぶん時間がかかった。
あれと別れ山を下りてまもなく、嗅覚が利かないことに気が付いた。月下美人の花畑や公衆便所で夜を明かしてもぴくりともしなかった嗅覚が、屍の匂いだけに強く反応した。その途端、鼻がずるりと取れた。
ひどく蒸し暑い。汗と垢に塗れた腿を、腐敗の進む屍がべたんべたんと叩きつける。さっき産院の裏口から頂戴したばかりの屍だが、この暑さで見る見るうちに腐敗が進んでいる。腐った汁が腿を伝い流れ、アスファルトに点々と跡を残す。おれの足跡。
鼻のない顔に屍をなすりつけ、匂いを嗅ぎ、舐め、啜る。
あぁ、あの夜のあいつと同じ匂いだ。
【800字】
屍をぶら提げている。歩くと屍がぶらぶらと揺れて、臭気を撒き散らす。獣でも見るように、そうでなければ存在しないものとして、人々がおれの脇を通り過ぎてゆく。ずいぶん距離を取っているのに、鼻をつまみ、懸命に息を止める表情が可笑しくて高笑いをする。おれの笑い声に驚くのか、足をもつれさせながら逃げ出す。
鼻なんてだいぶ前に腐ってもげてしまった。腐れ鼻に冒されたのだ。女にうつされたのだと気がつくまで、ずいぶん時間がかかった。
匂いがわからなくなり、かえって匂いに執心した。月下美人の花畑や公衆便所で夜を明かしてみてもぴくりともしなかった嗅覚が、屍の匂いだけに強く反応した。その途端、鼻がずるりと取れた。
だからおれは屍をぶら提げる。この世に匂いがあることを、おれの鼻がまだかろうじて機能していることを、おれがまだ死んではいないことを、確かめるために。
今日はひどく蒸し暑い。じっとり汗を掻いた腿を腐敗が進む屍がべたんべたんと叩きつける。腐った汁が腿を伝い、アスファルトに点々と跡を残す。おれの足跡。
屍を手に入れるのは難しいことではない。産院の裏口の陰に隠れて一日見張っていれば、一つや二つ、手に入る。
白衣を着た太った女が盥を持ってそっと裏口を開ける。あたりをせわしなく見回して、盥をおれの前にガチャンと置いてゆく。野良犬に餌を与えるよりもぞんざいな手つきで、おれの顔を見ようともしない。
粘液の混じった血を滴らせているまだ生暖かい屍を、おれは握り締める。血の臭い、死体の臭い、それを産み落とした女の匂い。それだけがおれの知っている匂いだ。
遠い昔、霧深い山の中で抱いた碧眼の毛深い女の匂いを思い出しながら、平べったい顔に屍をなすり付ける。
【1200字】
白衣を着た太った女が盥を持ってそっと裏口を開ける。あたりをせわしなく見回して、盥をおれの前にガチャンと置いた。野良犬に餌を与えるよりもぞんざいな手つきで、おれの顔を見ようともしないが、こうして毎日のように屍を手に入れられるのだ、なんの不満もない。
盥の中に溜まった血を残らず舐めると、おれは裏口の扉の前に盥を置き産院を後にする。粘液の混じった血を滴らせているまだ生暖かい屍を握り締める。今日のは少し大きい。目鼻立ちがしっかりしている。
血の臭い、死体の臭い、それを産み落とした女の匂い。おれの知っているすべての匂いだ。
手に入れたばかりの屍を腰紐に結わえ付け、ぶら提げて歩く。ひどく蒸し暑い。何年も風呂に入っていない硬い垢に覆われた腿に、じっとりとねばっこい汗が滲む。腰からぶら提げた屍は暑さのせいで一段と腐敗が速く進む。文字通り、見る見るうちに腐っていく。屍が腿をべたんべたんと叩きつける。腐った汁が腿を伝い流れ、アスファルトに点々と跡を残す。おれの足跡。
歩くたびに臭気が強くなり、おれは深く息を吸い込む。道行く人がおれの姿におびえ、鼻をつまみ、足早に去る。おれにはつまむ鼻がないからな、と独りごちて高笑いをする。すると懸命に素知らぬ振りで歩いていた者までもが、顔をゆがめて逃げ出していった。おれはさらに笑う。
鼻はとうの昔にもげた。遭難した山で出逢った女が腐れ鼻だったのだ、と気がついたのはずいぶん後になってからだ。
慣れた山だった。茸を採りに入ったら急に霧が深くなり、方向がわからなくなった。おれはあてもなく彷徨った。動かないほうがいいだろうとわかっていたが、歩かずにはいられなかった。
何時間歩いただろうか、突然真っ白の霧の中から女が現れ、傾いた山小屋におれを招きいれた。女は異様に毛深く、言葉が通じなかったが、疲れた身体を労わってくれた。おれは女の澄んだ青い眸に魅せられた。霧が晴れるまで、長い時間抱き合っていた。
山を下りてまもなく、嗅覚がやられた。おれは匂いを捜し求めつづけた。月下美人の花畑や公衆便所で寝泊りした。記憶にあるあらゆる強い匂いに身体を沈めたが、嗅覚はぴくりともしなかった。
産院の裏に棄てられようとしていた小さな屍を見たとき、おれの嗅覚は激烈に刺激された。白衣の女が叫ぶのも構わず、それを顔になすりつけ続けた。そうしているうちに鼻がずるりと取れた。白衣の女が、また叫んだ。
山で出逢ったあの女は獣だったのかもしれない。腐りゆく屍の匂いは、あの女と同じ匂いがする。もうおれはこの匂いしか嗅ぐことができない。この匂いを嗅いで、まだ己が死んでいないらしいことを、確かめる。
血の臭い、死体の臭い、女の匂い。それだけがおれの知っている匂いだ。
遠い昔に腐れ鼻に冒されて、鼻はもげてなくなった。二本足で歩く牝の獣。毛深くて碧眼のあれが、霧深い山で遭難したおれを助けてくれた。霧が晴れるまで、おれはあれに抱きついて離れなかった。あれが腐れ鼻だったのだと気が付くまでずいぶん時間がかかった。
あれと別れ山を下りてまもなく、嗅覚が利かないことに気が付いた。月下美人の花畑や公衆便所で夜を明かしてもぴくりともしなかった嗅覚が、屍の匂いだけに強く反応した。その途端、鼻がずるりと取れた。
ひどく蒸し暑い。汗と垢に塗れた腿を、腐敗の進む屍がべたんべたんと叩きつける。さっき産院の裏口から頂戴したばかりの屍だが、この暑さで見る見るうちに腐敗が進んでいる。腐った汁が腿を伝い流れ、アスファルトに点々と跡を残す。おれの足跡。
鼻のない顔に屍をなすりつけ、匂いを嗅ぎ、舐め、啜る。
あぁ、あの夜のあいつと同じ匂いだ。
【800字】
屍をぶら提げている。歩くと屍がぶらぶらと揺れて、臭気を撒き散らす。獣でも見るように、そうでなければ存在しないものとして、人々がおれの脇を通り過ぎてゆく。ずいぶん距離を取っているのに、鼻をつまみ、懸命に息を止める表情が可笑しくて高笑いをする。おれの笑い声に驚くのか、足をもつれさせながら逃げ出す。
鼻なんてだいぶ前に腐ってもげてしまった。腐れ鼻に冒されたのだ。女にうつされたのだと気がつくまで、ずいぶん時間がかかった。
匂いがわからなくなり、かえって匂いに執心した。月下美人の花畑や公衆便所で夜を明かしてみてもぴくりともしなかった嗅覚が、屍の匂いだけに強く反応した。その途端、鼻がずるりと取れた。
だからおれは屍をぶら提げる。この世に匂いがあることを、おれの鼻がまだかろうじて機能していることを、おれがまだ死んではいないことを、確かめるために。
今日はひどく蒸し暑い。じっとり汗を掻いた腿を腐敗が進む屍がべたんべたんと叩きつける。腐った汁が腿を伝い、アスファルトに点々と跡を残す。おれの足跡。
屍を手に入れるのは難しいことではない。産院の裏口の陰に隠れて一日見張っていれば、一つや二つ、手に入る。
白衣を着た太った女が盥を持ってそっと裏口を開ける。あたりをせわしなく見回して、盥をおれの前にガチャンと置いてゆく。野良犬に餌を与えるよりもぞんざいな手つきで、おれの顔を見ようともしない。
粘液の混じった血を滴らせているまだ生暖かい屍を、おれは握り締める。血の臭い、死体の臭い、それを産み落とした女の匂い。それだけがおれの知っている匂いだ。
遠い昔、霧深い山の中で抱いた碧眼の毛深い女の匂いを思い出しながら、平べったい顔に屍をなすり付ける。
【1200字】
白衣を着た太った女が盥を持ってそっと裏口を開ける。あたりをせわしなく見回して、盥をおれの前にガチャンと置いた。野良犬に餌を与えるよりもぞんざいな手つきで、おれの顔を見ようともしないが、こうして毎日のように屍を手に入れられるのだ、なんの不満もない。
盥の中に溜まった血を残らず舐めると、おれは裏口の扉の前に盥を置き産院を後にする。粘液の混じった血を滴らせているまだ生暖かい屍を握り締める。今日のは少し大きい。目鼻立ちがしっかりしている。
血の臭い、死体の臭い、それを産み落とした女の匂い。おれの知っているすべての匂いだ。
手に入れたばかりの屍を腰紐に結わえ付け、ぶら提げて歩く。ひどく蒸し暑い。何年も風呂に入っていない硬い垢に覆われた腿に、じっとりとねばっこい汗が滲む。腰からぶら提げた屍は暑さのせいで一段と腐敗が速く進む。文字通り、見る見るうちに腐っていく。屍が腿をべたんべたんと叩きつける。腐った汁が腿を伝い流れ、アスファルトに点々と跡を残す。おれの足跡。
歩くたびに臭気が強くなり、おれは深く息を吸い込む。道行く人がおれの姿におびえ、鼻をつまみ、足早に去る。おれにはつまむ鼻がないからな、と独りごちて高笑いをする。すると懸命に素知らぬ振りで歩いていた者までもが、顔をゆがめて逃げ出していった。おれはさらに笑う。
鼻はとうの昔にもげた。遭難した山で出逢った女が腐れ鼻だったのだ、と気がついたのはずいぶん後になってからだ。
慣れた山だった。茸を採りに入ったら急に霧が深くなり、方向がわからなくなった。おれはあてもなく彷徨った。動かないほうがいいだろうとわかっていたが、歩かずにはいられなかった。
何時間歩いただろうか、突然真っ白の霧の中から女が現れ、傾いた山小屋におれを招きいれた。女は異様に毛深く、言葉が通じなかったが、疲れた身体を労わってくれた。おれは女の澄んだ青い眸に魅せられた。霧が晴れるまで、長い時間抱き合っていた。
山を下りてまもなく、嗅覚がやられた。おれは匂いを捜し求めつづけた。月下美人の花畑や公衆便所で寝泊りした。記憶にあるあらゆる強い匂いに身体を沈めたが、嗅覚はぴくりともしなかった。
産院の裏に棄てられようとしていた小さな屍を見たとき、おれの嗅覚は激烈に刺激された。白衣の女が叫ぶのも構わず、それを顔になすりつけ続けた。そうしているうちに鼻がずるりと取れた。白衣の女が、また叫んだ。
山で出逢ったあの女は獣だったのかもしれない。腐りゆく屍の匂いは、あの女と同じ匂いがする。もうおれはこの匂いしか嗅ぐことができない。この匂いを嗅いで、まだ己が死んでいないらしいことを、確かめる。
2008年8月23日土曜日
笑わない彼女たち
行儀よく並んだ集合写真は、お下げ髪の少女ばかりが二十人ほど映っている。その表情は一様にうつろで、箸が転んでも可笑しい年頃の少女たちの虚無な瞳は、恐ろしい。
「一体、どういうことですか」
と写真を見ながら、目の前の老婆に訊ねる。
「笑うと髪が伸びます。それを校庭のクスノキの枝に結わえ付けられました。見せしめのためです」
老婆が苦笑すると、するりと十センチばかり白髪のお下げが伸びた。すかさず老婆は鋏を入れる。傍らの屑篭には、白い毛が一杯に詰め込まれている。
「笑えば腹が減る。子供に食わす食料などこの地球に残っちゃいない、と先生はおっしゃるのです」
窓の外の赤い地球を見遣る。
「一体、どういうことですか」
と写真を見ながら、目の前の老婆に訊ねる。
「笑うと髪が伸びます。それを校庭のクスノキの枝に結わえ付けられました。見せしめのためです」
老婆が苦笑すると、するりと十センチばかり白髪のお下げが伸びた。すかさず老婆は鋏を入れる。傍らの屑篭には、白い毛が一杯に詰め込まれている。
「笑えば腹が減る。子供に食わす食料などこの地球に残っちゃいない、と先生はおっしゃるのです」
窓の外の赤い地球を見遣る。
2008年8月20日水曜日
てるてる坊主
ちり紙の頭と、ちり紙の合羽だとお思いでしょうが、てるてる坊主は、てるてる坊主と呼ばれれば、その瞬間に単なる丸めたちり紙ではなくなります。
子供たちは祈ります。
「あーした天気にしておくれ」
そして、天気になろうとなるまいと、数日のうちにくしゃくしゃと握りしめられ屑籠に投げ捨てられます。
けれども、てるてる坊主はゴミ収集車には乗りません。
てるてる坊主にはてるてる坊主の「約束の地」があり、役目を果たした者もそうでない者も、そこに向かいます。彼の地で、永遠の眠りにつくのです。
墓地に向かうてるてる坊主は、もはやてるてる坊主の姿と思えない者や、雨ざらしで黒ずみごわごわした者もいます。サインぺンで書かれた顔が滲み苦悶の表情を浮かべる者も少なくありません。
「あーした天気にしておくれ」
てるてる坊主は、かつて己に向けられた祈りの言葉を唱えながら、進みます。
もう、どんなに唱えても、煙雨が晴れることはありません。
子供たちは祈ります。
「あーした天気にしておくれ」
そして、天気になろうとなるまいと、数日のうちにくしゃくしゃと握りしめられ屑籠に投げ捨てられます。
けれども、てるてる坊主はゴミ収集車には乗りません。
てるてる坊主にはてるてる坊主の「約束の地」があり、役目を果たした者もそうでない者も、そこに向かいます。彼の地で、永遠の眠りにつくのです。
墓地に向かうてるてる坊主は、もはやてるてる坊主の姿と思えない者や、雨ざらしで黒ずみごわごわした者もいます。サインぺンで書かれた顔が滲み苦悶の表情を浮かべる者も少なくありません。
「あーした天気にしておくれ」
てるてる坊主は、かつて己に向けられた祈りの言葉を唱えながら、進みます。
もう、どんなに唱えても、煙雨が晴れることはありません。
2008年8月19日火曜日
東京
地図を見ながら路地に入る。
どの家も玄関先に小さな鉢植えを所狭しと置いていて、狭い道がますます窮屈になっている。
複雑な地図に困り、ポケットからコンパスを取り出すが、磁石は気まぐれに向きを変えるので諦めた。
「このあたりに、キタムラという印刷所があるはずなんだが」
朝顔に訊ねても、猫に聞いてもわからない。とぼけてこたえてくれないのだ。
猫がおもしろがってついてくるから、知ってるくせにどうして教えてくれないんだと文句を垂れながら歩く。
いくらも歩かないのに、コンクリートジャングルのど真ん中にいた。あまりに唐突に風景が変わり、たじろぐ。
振り返ると猫の姿はなく、路地は陽炎でゆらゆらと見えない。
もう一度あの中に戻ろうかと迷っていると、汚れた商用車が陽炎に突っ込んで行った。
どの家も玄関先に小さな鉢植えを所狭しと置いていて、狭い道がますます窮屈になっている。
複雑な地図に困り、ポケットからコンパスを取り出すが、磁石は気まぐれに向きを変えるので諦めた。
「このあたりに、キタムラという印刷所があるはずなんだが」
朝顔に訊ねても、猫に聞いてもわからない。とぼけてこたえてくれないのだ。
猫がおもしろがってついてくるから、知ってるくせにどうして教えてくれないんだと文句を垂れながら歩く。
いくらも歩かないのに、コンクリートジャングルのど真ん中にいた。あまりに唐突に風景が変わり、たじろぐ。
振り返ると猫の姿はなく、路地は陽炎でゆらゆらと見えない。
もう一度あの中に戻ろうかと迷っていると、汚れた商用車が陽炎に突っ込んで行った。
2008年8月15日金曜日
レモン病
泣いている彼女の頬にキスをしたら、レモンの味がした。
コンピューターで彼女の涙を解析したけれど、何度やっても結果は「果汁:レモン」と出る。
ぼくは図書館に籠もった。植物の本、果物の本、医学の本、レモンの出てくる文学、料理の本、思いつくものを片っ端から調べたけれども、レモン汁の涙の記述は出てこない。
「何を調べているのですか」
図書館司書がそう尋ねるのでぼくは正直に応えた。
「レモンの涙について。ぼくの恋人の涙は、レモン汁なんです」
すると図書館司書はふわぁぁと大きな欠伸をした。
「あなたもずいぶん重症なレモン病にかかりましたね」
目尻に溜まった涙を指先で掬う。
「ほら、舐めてご覧なさい」
差し出された人差し指を口に含むと、やはりレモン汁だった。
コンピューターで彼女の涙を解析したけれど、何度やっても結果は「果汁:レモン」と出る。
ぼくは図書館に籠もった。植物の本、果物の本、医学の本、レモンの出てくる文学、料理の本、思いつくものを片っ端から調べたけれども、レモン汁の涙の記述は出てこない。
「何を調べているのですか」
図書館司書がそう尋ねるのでぼくは正直に応えた。
「レモンの涙について。ぼくの恋人の涙は、レモン汁なんです」
すると図書館司書はふわぁぁと大きな欠伸をした。
「あなたもずいぶん重症なレモン病にかかりましたね」
目尻に溜まった涙を指先で掬う。
「ほら、舐めてご覧なさい」
差し出された人差し指を口に含むと、やはりレモン汁だった。
2008年8月14日木曜日
ひっかき傷のかさぶた
もう十二年もかさぶたのままだったひっかき傷が、やっときれいになってきたと思っていたのに、また新しいひっかき傷を負った。あのときと同じ白く塗られた長い爪にやられて。
今度も十二年もかさぶたが取れないのだろうか、と思うと暗澹たる気持ちになる。
そういえば、十二年前も申年だった。申年、サル顔の女には要注意だ、オレ。
今度も十二年もかさぶたが取れないのだろうか、と思うと暗澹たる気持ちになる。
そういえば、十二年前も申年だった。申年、サル顔の女には要注意だ、オレ。
2008年8月13日水曜日
2008年8月12日火曜日
泳ぐ人
「海は嫌いになっちゃった」
と彼女は言った。
夜の市民体育館の室内プールで、ぼくは彼女が泳ぐのを見ている。
非常口誘導用の灯りとアクリル張りの壁越しの月が、彼女の立てた水しぶきを照らす。
彼女は人魚だった。海水浴に来ていた僕を見初めたと言って、陸に上がった。
いまではすっかりきれいになった二本足で歩く。
けれども泳ぎは止められない。やわらかなバタフライ。
「海では、サトシにこうして見てもらえないから」
彼女は泳ぐ人で、ぼくは彼女が泳ぐのを見る人。
ぼくは彼女の泳ぎを見るのが好きだ。水中でのびのびと動く長い手足、競泳用のぴったりとした水着に包まれた胸やお尻のライン。彼女の泳ぐ音だけが、夜の室内プールに響く。
「ずっと、見ていてね」
しなやかなクロール。彼女の肩で、水滴がひとつ残らず球体になる。
と彼女は言った。
夜の市民体育館の室内プールで、ぼくは彼女が泳ぐのを見ている。
非常口誘導用の灯りとアクリル張りの壁越しの月が、彼女の立てた水しぶきを照らす。
彼女は人魚だった。海水浴に来ていた僕を見初めたと言って、陸に上がった。
いまではすっかりきれいになった二本足で歩く。
けれども泳ぎは止められない。やわらかなバタフライ。
「海では、サトシにこうして見てもらえないから」
彼女は泳ぐ人で、ぼくは彼女が泳ぐのを見る人。
ぼくは彼女の泳ぎを見るのが好きだ。水中でのびのびと動く長い手足、競泳用のぴったりとした水着に包まれた胸やお尻のライン。彼女の泳ぐ音だけが、夜の室内プールに響く。
「ずっと、見ていてね」
しなやかなクロール。彼女の肩で、水滴がひとつ残らず球体になる。
2008年8月9日土曜日
遠雷
ビルの屋上に上がる。いつでも雷が見えるから。
稲光はスピネルのような赤で、ぼくはうっとりと眺めてしまう。
遅れて、雷鳴が聞こえる。
それが断末魔の悲鳴だと知ったのは、五歳の時だった。
「雷に打たれにゆくから、さよならだ、小僧。明日の夕方に聞こえた雷のどれかが俺の声だ。ちゃんと聞いておけよ。ビルの屋上に上れば、よく聞こえるはずだ」
と顔馴染みの年老いたルンペンに言われた。
ルンペンはもう起き上がれないほど弱っているのに、どうやって雷までゆくのだろう、という問いには応えはなかった。ルンペンはすぐに寝息を立ててしまった。
ぼくは、雷がどこに落ちるのか知らない。ビルの屋上から見る赤い雷は果てしなく遠いようで、すぐそばのようにも見える。
その時が来ればわかるのだろうか、あのルンペンのように。
稲光はスピネルのような赤で、ぼくはうっとりと眺めてしまう。
遅れて、雷鳴が聞こえる。
それが断末魔の悲鳴だと知ったのは、五歳の時だった。
「雷に打たれにゆくから、さよならだ、小僧。明日の夕方に聞こえた雷のどれかが俺の声だ。ちゃんと聞いておけよ。ビルの屋上に上れば、よく聞こえるはずだ」
と顔馴染みの年老いたルンペンに言われた。
ルンペンはもう起き上がれないほど弱っているのに、どうやって雷までゆくのだろう、という問いには応えはなかった。ルンペンはすぐに寝息を立ててしまった。
ぼくは、雷がどこに落ちるのか知らない。ビルの屋上から見る赤い雷は果てしなく遠いようで、すぐそばのようにも見える。
その時が来ればわかるのだろうか、あのルンペンのように。
ノイズレス
「バー・ノイズレスへようこそ」
地下のバーの入り口前でペコリと頭を下げたボーイは、十代半ばの少年である。
「店内に入る前に、ノイズを頂戴します」
ボーイは再び軽く頭を下げると、私の耳元に口を寄せる。美しい顔が近づき、顔が赤くなるが、幸いここは暗い。
彼は大きく息を吸う。私の耳の中を吸い出すように。左耳、右耳。
騒音がたちまち小さくなる。階段したまで聞こえていた車の音、人々の喧騒も止む。時間が止まったような錯覚に囚われる。
時間。腕時計に耳を寄せると、秒針は無言で回転していた。外して、ポケットに入れる。
ボーイが無音のドアをあける。唇が動く。耳を澄ます。
「こちらへ」
ボーイの囁き声が静まり返った脳に心地よく響く。足音すら立たない店内に入ると、バーテンダーが微笑んだ。華麗なシェイキングで、氷の小さな笑い声がコロコロと鳴る。
そういえば、バーテンダーはずいぶん白髪が増えたのに、あのボーイは初めてこのバーを訪れたときから変わらない。
********************
500文字の心臓 第78回タイトル競作投稿作
○1 △3 ×1
地下のバーの入り口前でペコリと頭を下げたボーイは、十代半ばの少年である。
「店内に入る前に、ノイズを頂戴します」
ボーイは再び軽く頭を下げると、私の耳元に口を寄せる。美しい顔が近づき、顔が赤くなるが、幸いここは暗い。
彼は大きく息を吸う。私の耳の中を吸い出すように。左耳、右耳。
騒音がたちまち小さくなる。階段したまで聞こえていた車の音、人々の喧騒も止む。時間が止まったような錯覚に囚われる。
時間。腕時計に耳を寄せると、秒針は無言で回転していた。外して、ポケットに入れる。
ボーイが無音のドアをあける。唇が動く。耳を澄ます。
「こちらへ」
ボーイの囁き声が静まり返った脳に心地よく響く。足音すら立たない店内に入ると、バーテンダーが微笑んだ。華麗なシェイキングで、氷の小さな笑い声がコロコロと鳴る。
そういえば、バーテンダーはずいぶん白髪が増えたのに、あのボーイは初めてこのバーを訪れたときから変わらない。
********************
500文字の心臓 第78回タイトル競作投稿作
○1 △3 ×1
2008年8月8日金曜日
2008年8月6日水曜日
2008年8月4日月曜日
こどもの世界
空き地に作った秘密基地は、単なるカモフラージュで、本当の入り口は古いさびだらけのマンホールだ。
それはよくあるマンホールより少し小さくて、へんてこな模様をしている。ぼくたちは「宇宙人の文字だ!」なんて言いながら開けようとしたけども、マンホールはなかなか持ち上がらなかった。
何日かして、コウタがどこからか鉄の棒を持ってきて、マンホールを持ち上げた。テコのゲンリってやつだ、とコウタはいつもの知ったかぶりで言った。
マンホールの中は、真っ暗なんだけれど、しばらくじっとしていると目が慣れてくる。
そのうちにこうばしい匂いがしてきて、ぼくたちはそれに向かってあるくのだけど、あるいてもあるいても、匂いのもとは見つからない。
だんだんマンホールから遠くなって、帰りが急に心配になる。それで、いつも最後はわぁわぁ叫びながら走って戻ってくる。
明日こそ、あのおいしそうな匂いを見つけよう、と毎日思う。けれど、もう四年生も終わる。母さんが勉強勉強とうるさくなってきたし、最近ちょっとマンホールの穴が窮屈になってきたんだ。
それはよくあるマンホールより少し小さくて、へんてこな模様をしている。ぼくたちは「宇宙人の文字だ!」なんて言いながら開けようとしたけども、マンホールはなかなか持ち上がらなかった。
何日かして、コウタがどこからか鉄の棒を持ってきて、マンホールを持ち上げた。テコのゲンリってやつだ、とコウタはいつもの知ったかぶりで言った。
マンホールの中は、真っ暗なんだけれど、しばらくじっとしていると目が慣れてくる。
そのうちにこうばしい匂いがしてきて、ぼくたちはそれに向かってあるくのだけど、あるいてもあるいても、匂いのもとは見つからない。
だんだんマンホールから遠くなって、帰りが急に心配になる。それで、いつも最後はわぁわぁ叫びながら走って戻ってくる。
明日こそ、あのおいしそうな匂いを見つけよう、と毎日思う。けれど、もう四年生も終わる。母さんが勉強勉強とうるさくなってきたし、最近ちょっとマンホールの穴が窮屈になってきたんだ。
リトル・スクールガール
真っ赤なランドセルをベッドに放り投げて、髪を結い直す。
真っ赤の靴を履いて飛び出す。ぴっかぴかのエナメル。本当はちょっときつい。
「今日はどこに行くの?」腕を絡めて歩く。恋人は四歳年上の十一歳。
行く先は児童館。トランポリンで跳ねあって、手を繋いで、息を弾ませ、見つめ合う。
閉館のチャイムに追い出され、ほっぺにキスをもらって別れる。また、明日ね。ウィンクだって上手くなった。
家には誰もいない。お腹を減らして、うずくまる。
ランドセルは、まだベッドの上。
真っ赤の靴を履いて飛び出す。ぴっかぴかのエナメル。本当はちょっときつい。
「今日はどこに行くの?」腕を絡めて歩く。恋人は四歳年上の十一歳。
行く先は児童館。トランポリンで跳ねあって、手を繋いで、息を弾ませ、見つめ合う。
閉館のチャイムに追い出され、ほっぺにキスをもらって別れる。また、明日ね。ウィンクだって上手くなった。
家には誰もいない。お腹を減らして、うずくまる。
ランドセルは、まだベッドの上。
2008年8月2日土曜日
甕覗
水色の眼球がぷるんと震えて、とろけて、流れた。
伽藍洞になった眼窩に、ぼくは見覚えがある。父さんの顔にもやはり、伽藍洞の眼窩があった。
「おまえに甕は、渡せない」
と眼球のなくなった顔で男が言う。何故?と聞くと、おまえもこうなりたいか?と言われて、ぼくは黙った。
男の持つ甕を覗けば、あの水色の眼球になれる。白眼も睛も、すべて水色の眼球。ぼくは、それが欲しかった。水色の眼球なら。
「お前も母に逢いたいのだろう。確かに、母には逢える。いつでも一緒だ。だが、仕舞いには、こうして目玉が腐る。それでも欲しいか、母が」
甕の蓋を開けるとむしったばかりの葉の匂いがした。甕の中は、空よりも澄み、海より透明な青がどこまでも続いている。
伽藍洞になった眼窩に、ぼくは見覚えがある。父さんの顔にもやはり、伽藍洞の眼窩があった。
「おまえに甕は、渡せない」
と眼球のなくなった顔で男が言う。何故?と聞くと、おまえもこうなりたいか?と言われて、ぼくは黙った。
男の持つ甕を覗けば、あの水色の眼球になれる。白眼も睛も、すべて水色の眼球。ぼくは、それが欲しかった。水色の眼球なら。
「お前も母に逢いたいのだろう。確かに、母には逢える。いつでも一緒だ。だが、仕舞いには、こうして目玉が腐る。それでも欲しいか、母が」
甕の蓋を開けるとむしったばかりの葉の匂いがした。甕の中は、空よりも澄み、海より透明な青がどこまでも続いている。
2008年7月31日木曜日
2008年7月30日水曜日
蛇の屈葬
明日になればまた一つ、甕が増えるだろう。今夜もまた、隣の部屋から押し殺した姉の声が聞こえる。そっと襖を開いて覗く。
姉さんの部屋には、小さな素焼きの甕が壁いっぱいに積み上げられている。甕棺墓、と密かにそう呼んでいる。実際、あの甕は棺だから。
姉さんは蛇を見つけては持ち帰る。毒のあるのもないのも、細いのも太いのも関係なく、絡み合う。
姉さんの浅黒い肌が赤く火照っているのが襖の隙間からでもわかる。今夜はまた一段と細長い蛇が、姉さんの躰にきつく巻き付いている。
こうして一晩たっぷり戯れて、明け方になるとクイッと絞め殺すのだ。
涙を流しながら、硬直した蛇をぼきぼきと折り、畳み、甕に納める。祈りの唄を呟く口から、先割れた舌が見え隠れする。
泣き腫らしたまま、また蛇を求めて出掛けてしまう。
わたしは、姉さんが出掛けると甕を開けて、死んだばかりの蛇を、股間に擦り付ける。
姉さんの部屋には、小さな素焼きの甕が壁いっぱいに積み上げられている。甕棺墓、と密かにそう呼んでいる。実際、あの甕は棺だから。
姉さんは蛇を見つけては持ち帰る。毒のあるのもないのも、細いのも太いのも関係なく、絡み合う。
姉さんの浅黒い肌が赤く火照っているのが襖の隙間からでもわかる。今夜はまた一段と細長い蛇が、姉さんの躰にきつく巻き付いている。
こうして一晩たっぷり戯れて、明け方になるとクイッと絞め殺すのだ。
涙を流しながら、硬直した蛇をぼきぼきと折り、畳み、甕に納める。祈りの唄を呟く口から、先割れた舌が見え隠れする。
泣き腫らしたまま、また蛇を求めて出掛けてしまう。
わたしは、姉さんが出掛けると甕を開けて、死んだばかりの蛇を、股間に擦り付ける。
2008年7月29日火曜日
哀しい食欲
ひもじいと言って、娘は泣く。毎日泣く。
飯はある。腹が減ったら食べればよい。ひもじくて泣く理由はない。
よくよく聞いてみると、ひもじいと、誰かに見放されて、棄て置かれた気分になるのだという。独りぼっちはもう嫌だから、蟻を食べるのもたくさんだから、泣かずにはいられないと、娘は幼い語彙を繋いで切れ切れに語った。
そういえば、この娘を孕むちょっと前に、道端で蟻を食らう少年を見た。おっかさん、と呼び止められて、逃げた。走って走って、少年が見えなくなっても、まだ走った。
蟻は酸っぱい。足や触角が舌に刺さる。食べても食べても腹くちくならなくて、泣きながらそれでも食べた。
また娘がひもじいと言って泣いている。抱き上げて、その涙を指で掬い舐める。酸っぱかった。
飯はある。腹が減ったら食べればよい。ひもじくて泣く理由はない。
よくよく聞いてみると、ひもじいと、誰かに見放されて、棄て置かれた気分になるのだという。独りぼっちはもう嫌だから、蟻を食べるのもたくさんだから、泣かずにはいられないと、娘は幼い語彙を繋いで切れ切れに語った。
そういえば、この娘を孕むちょっと前に、道端で蟻を食らう少年を見た。おっかさん、と呼び止められて、逃げた。走って走って、少年が見えなくなっても、まだ走った。
蟻は酸っぱい。足や触角が舌に刺さる。食べても食べても腹くちくならなくて、泣きながらそれでも食べた。
また娘がひもじいと言って泣いている。抱き上げて、その涙を指で掬い舐める。酸っぱかった。
スカート
クローゼットの一番下の抽斗に一枚だけ入っている、細かい花柄のスカートを、俺は慌ただしく穿く。堪えがたい衝動を宥める必要はない。
スカートを穿き、くるりと回る。ひらりと翻る。
くるくると回る。ふわふわと、あの娘の匂いが漂う。
スカートを顔を当てて思い切り息を吸い込んでも、決して嗅ぐことができない、あの娘の匂い。だから俺は、回り続ける。
回り続けて、回り続けて、あの娘の香りでいっぱいになる。此処にいるのはわかっているのに、すぐにでも抱きしめたいのに、何故か回るのを止められずに、気を失ってしまう。目が回る前に、逢いたいよ……。
わたしは彼をもとめて部屋を見渡す。脱ぎ捨てられたばかりのシャツを拾いあげて抱きしめる。どうして会えないのか、わからないけれど、ついさっきまで彼は此処にいたのね……。
穏やかな気持ちで、わたしは眠りにつく。彼のベッドの大きなで枕で。
スカートを穿き、くるりと回る。ひらりと翻る。
くるくると回る。ふわふわと、あの娘の匂いが漂う。
スカートを顔を当てて思い切り息を吸い込んでも、決して嗅ぐことができない、あの娘の匂い。だから俺は、回り続ける。
回り続けて、回り続けて、あの娘の香りでいっぱいになる。此処にいるのはわかっているのに、すぐにでも抱きしめたいのに、何故か回るのを止められずに、気を失ってしまう。目が回る前に、逢いたいよ……。
わたしは彼をもとめて部屋を見渡す。脱ぎ捨てられたばかりのシャツを拾いあげて抱きしめる。どうして会えないのか、わからないけれど、ついさっきまで彼は此処にいたのね……。
穏やかな気持ちで、わたしは眠りにつく。彼のベッドの大きなで枕で。
2008年7月27日日曜日
あしたの劇場
夜更け。小さな古い劇場の舞台にスポットライトが灯る。
もう劇団員は誰一人残っていない。
緞帳はつぎはぎだらけで、舞台はでこぼこ。天井はところどころ剥がれ落ちて、ちっとも声が響かない。劇場は百歳になった。
この劇場から巣立った役者は皆、ここに戻ってくる。曾孫のような若い役者たちを助けようと、役者魂だけになった大昔の演劇青年たちは、力を合わせておさらいする。
今度のヒロインはドレスを着るんだ。よく注意してやらなきゃ。でこぼこの舞台でつまずいたら大変だ。
あいつはまだまだ芝居というものが、わかっちゃおらん。甘やかすのはどうかと思うね。
まぁまぁそう言わずに、あの子たちにがんばってもらわなきゃ、おれたち浮かばれないからさ、ほら、ここの決め台詞、エコーつけてやろうよ。
役者魂たちは、さっきまでのリハーサルを懸命に思い出しながら、芝居の幻を舞台にくゆらせる。
あした、このお芝居で拍手が聞きたいのは、誰より役者魂たちなのだ。
大きな拍手が起きたら、また天井が剥がれるね、と役者魂の一人が呟いた。
もう劇団員は誰一人残っていない。
緞帳はつぎはぎだらけで、舞台はでこぼこ。天井はところどころ剥がれ落ちて、ちっとも声が響かない。劇場は百歳になった。
この劇場から巣立った役者は皆、ここに戻ってくる。曾孫のような若い役者たちを助けようと、役者魂だけになった大昔の演劇青年たちは、力を合わせておさらいする。
今度のヒロインはドレスを着るんだ。よく注意してやらなきゃ。でこぼこの舞台でつまずいたら大変だ。
あいつはまだまだ芝居というものが、わかっちゃおらん。甘やかすのはどうかと思うね。
まぁまぁそう言わずに、あの子たちにがんばってもらわなきゃ、おれたち浮かばれないからさ、ほら、ここの決め台詞、エコーつけてやろうよ。
役者魂たちは、さっきまでのリハーサルを懸命に思い出しながら、芝居の幻を舞台にくゆらせる。
あした、このお芝居で拍手が聞きたいのは、誰より役者魂たちなのだ。
大きな拍手が起きたら、また天井が剥がれるね、と役者魂の一人が呟いた。
2008年7月25日金曜日
鳩と積み木
鳩は「城を建てる」と鳴く。
繰り返しそう鳴きながら、じっと僕の手を見る。
公園で枝を集めて、小刀で削っている。ほかにすることがないから、日が傾いて手元が見えなくなるまで、そうして過ごす。公園には人もたくさん通るけれど、だれも僕に「何をしているんですか?」なんて尋ねたりはしない。小さな人懐っこそうな子供ですら、僕を見るとすぐに視線を逸らす。なぜだかわからない。鳩だけが、僕の側に集まる。
小刀は精確に四角柱や円柱や球を削り出す。指先ほどの小さな積木。鳩は、出来た積木を僕の手から奪い取って、どこかに飛んでゆく。嘴できちんと挟まれた、美しい四角柱や円柱や球を見送って、次の枝に取り掛かる。
「王様は誰?」「お城はどこにあるの?」と時々訊ねる。そんなときは「くるっくぅ」としか応えてくれない。
とびきり美しい球体が出来た。これはお城の屋根の天辺に載せて欲しい。
繰り返しそう鳴きながら、じっと僕の手を見る。
公園で枝を集めて、小刀で削っている。ほかにすることがないから、日が傾いて手元が見えなくなるまで、そうして過ごす。公園には人もたくさん通るけれど、だれも僕に「何をしているんですか?」なんて尋ねたりはしない。小さな人懐っこそうな子供ですら、僕を見るとすぐに視線を逸らす。なぜだかわからない。鳩だけが、僕の側に集まる。
小刀は精確に四角柱や円柱や球を削り出す。指先ほどの小さな積木。鳩は、出来た積木を僕の手から奪い取って、どこかに飛んでゆく。嘴できちんと挟まれた、美しい四角柱や円柱や球を見送って、次の枝に取り掛かる。
「王様は誰?」「お城はどこにあるの?」と時々訊ねる。そんなときは「くるっくぅ」としか応えてくれない。
とびきり美しい球体が出来た。これはお城の屋根の天辺に載せて欲しい。
2008年7月23日水曜日
足の裏の世界
「足の裏に行ってみないか?」
と言うそばから、貴様は足をずるりんと裏返してしまうから、もうここは足の裏の世界なんである。
足の裏の世界といっても、臭くはない。貴様は案外よく足を洗っているとみえる。結構なことである。
貴様は度々こちらに来ているのか、慣れたふうに足を頭に、頭を足にして歩いている。
俺様は育ちがいいから、そんなことはできない、と思っていたが、貴様に鏡を見せられた。やはり、足を頭にしているんである。
しばらく散策していると、水虫男が現れた。俺様は動揺して「を、をい、どうするんだ」と言うと、貴様はにやりと笑って、懐から水虫薬を取り出して、水虫男に塗りたくっていた。
水虫男が「あ、そんな。ゆるして」と甲高い声を出すので俺様も水虫薬を塗りたくってやった。
貴様が「そろそろ帰るか、頭の裏の世界に」というが早いが、水虫薬でぬらぬらしている手を口に突っ込み、ずるりんと裏返してしまった。
と言うそばから、貴様は足をずるりんと裏返してしまうから、もうここは足の裏の世界なんである。
足の裏の世界といっても、臭くはない。貴様は案外よく足を洗っているとみえる。結構なことである。
貴様は度々こちらに来ているのか、慣れたふうに足を頭に、頭を足にして歩いている。
俺様は育ちがいいから、そんなことはできない、と思っていたが、貴様に鏡を見せられた。やはり、足を頭にしているんである。
しばらく散策していると、水虫男が現れた。俺様は動揺して「を、をい、どうするんだ」と言うと、貴様はにやりと笑って、懐から水虫薬を取り出して、水虫男に塗りたくっていた。
水虫男が「あ、そんな。ゆるして」と甲高い声を出すので俺様も水虫薬を塗りたくってやった。
貴様が「そろそろ帰るか、頭の裏の世界に」というが早いが、水虫薬でぬらぬらしている手を口に突っ込み、ずるりんと裏返してしまった。
2008年7月22日火曜日
ローズクオーツ
薔薇の香りに誘われたからといって、どうしてこんなところに迷いこんでしまったのか。途中で引き返せばよかったものを。そもそも、こんなところに林があっただろうか。思い出そうとしてみるが、塩辛い唾液ばかりが溢れてきてどうにもならない。
どこかの庭で薔薇が咲いているのだろう、そう思いながら歩いていたら、いつのまにか鬱蒼とした林の中にいたのだった。そのまま香りの源を求めて歩いていると突然木々が開け、ボコボコと泡立つ沼が現れた。泡が弾けると薔薇の香りが濃くなる。ここから香るのだと合点して帰ろうとしたが、急に辺りが暗くなって来た道がわからなくなったのだ。
繰り返し記憶を辿ってみるが駅前の商店街を抜けたあたりから、まるで思い出せない。薔薇の香りだけを頼りに、ただただ彷徨い歩いていたというのか。
さっきから女の呻き声のようなものが聞こえる。だんだん近づいているように思う。蹲って日が出るのを待つしかない。
ふと時計を見ると、三本の針が高速で回転していた。衝動的に腕から外して、沼に投げ捨てる。その途端、時計を外した左手首がチクリとした。手首を掴まれている。びっしりと薔薇が身体に巻きついた女。ああ、この女が呻き声の主だ。
「痛い」と女が言う。身体から薔薇を外して下さいと言う。しかし、薄暗い中で棘だらけの薔薇を身体から剥がすのは困難に思えた。それに、女にこれ以上触れたくない。今すぐに、手首を離して欲しい。
「ならば、薔薇を枯らすのがよかろう」
沼を指してやった。
女は沼に沈む。あれほど泡を立てていた沼は忽ち沈黙し、辺りも明るなった。もと来た道を見つけ、歩き始める。
女に握られた手首には無数の棘が刺さり、とうとうと溢れ出る血から薔薇がひどく匂う。
第六回ビーケーワン怪談大賞 未投稿作品
どこかの庭で薔薇が咲いているのだろう、そう思いながら歩いていたら、いつのまにか鬱蒼とした林の中にいたのだった。そのまま香りの源を求めて歩いていると突然木々が開け、ボコボコと泡立つ沼が現れた。泡が弾けると薔薇の香りが濃くなる。ここから香るのだと合点して帰ろうとしたが、急に辺りが暗くなって来た道がわからなくなったのだ。
繰り返し記憶を辿ってみるが駅前の商店街を抜けたあたりから、まるで思い出せない。薔薇の香りだけを頼りに、ただただ彷徨い歩いていたというのか。
さっきから女の呻き声のようなものが聞こえる。だんだん近づいているように思う。蹲って日が出るのを待つしかない。
ふと時計を見ると、三本の針が高速で回転していた。衝動的に腕から外して、沼に投げ捨てる。その途端、時計を外した左手首がチクリとした。手首を掴まれている。びっしりと薔薇が身体に巻きついた女。ああ、この女が呻き声の主だ。
「痛い」と女が言う。身体から薔薇を外して下さいと言う。しかし、薄暗い中で棘だらけの薔薇を身体から剥がすのは困難に思えた。それに、女にこれ以上触れたくない。今すぐに、手首を離して欲しい。
「ならば、薔薇を枯らすのがよかろう」
沼を指してやった。
女は沼に沈む。あれほど泡を立てていた沼は忽ち沈黙し、辺りも明るなった。もと来た道を見つけ、歩き始める。
女に握られた手首には無数の棘が刺さり、とうとうと溢れ出る血から薔薇がひどく匂う。
第六回ビーケーワン怪談大賞 未投稿作品
2008年7月21日月曜日
牙を剥いたり、剥かれたり
初めて歯が抜けた日のことさ。その夜は嬉しくてその歯を握り締めたまま眠ったんだ。夜中に目が覚めて手をそっと開くと、ちゃんと歯はあった。歯のなくなったぶよぶよの歯茎を舌で、さっきまでそこに生えていた歯を手で弄んだ。そうしているうちに歯が話かけてきんだ。
「ねえ、あっくん。外に行こうよ。神社で遊ばない?」
ちょっと驚いたけど、誘いに乗った。神社の境内は公園になってるんだ。
歯を握り締めて、そっと布団を抜け出した。サンダルは音が出るから裸足のままで外に出た。真夏のアスファルトは夜でも熱いんだね。
神社には、ひまわりがたくさん咲いていた。夜のひまわりは昼間より眩しくて「夜なのに」と言ったら「夜だからね」と歯が言った。
「ひまわりにぶつけてよ。真ん中狙ってさ」
言われるままに歯をひまわりに投げつけた。歯は地面に落ちても「ここだよ」と言うからすぐに見つかる。拾っては投げ、拾っては投げ。ちょうど真ん中に当たると、ギュエッと叫んでひまわりは消えた。その度に嫌な匂いがするけれど、僕も歯も大喜びで「ストライク!」とか「命中!」って叫んだ。
最後のひまわりになると、急に怖くなった。すっぱい唾が口に溜まってきた。このひまわりが消えたらどうなるの?歯には聞けない。「早く最後のやつ、やっつけちゃえよ」
手の上で飛び跳ねている歯に急かされた。
「いやだ」と言ったら、歯は動かなくなった。その歯を握り締めて、走って家へ帰った。
次の日、神社は大騒ぎだった。あちこちに血が飛び散っていた。夜中に神社の前を通って怪我をした人が大勢いたんだって。あの嫌な匂いは血の匂いだったんだな。ひまわりは大きいのが一輪だけ咲いてたよ。訳知り顔で見下ろされているみたいだった。
見て、ここ。握り締めてた歯が左の手のひらに刺さっちゃって、ずっとそのまま。
ビーケーワン怪談投稿作
「ねえ、あっくん。外に行こうよ。神社で遊ばない?」
ちょっと驚いたけど、誘いに乗った。神社の境内は公園になってるんだ。
歯を握り締めて、そっと布団を抜け出した。サンダルは音が出るから裸足のままで外に出た。真夏のアスファルトは夜でも熱いんだね。
神社には、ひまわりがたくさん咲いていた。夜のひまわりは昼間より眩しくて「夜なのに」と言ったら「夜だからね」と歯が言った。
「ひまわりにぶつけてよ。真ん中狙ってさ」
言われるままに歯をひまわりに投げつけた。歯は地面に落ちても「ここだよ」と言うからすぐに見つかる。拾っては投げ、拾っては投げ。ちょうど真ん中に当たると、ギュエッと叫んでひまわりは消えた。その度に嫌な匂いがするけれど、僕も歯も大喜びで「ストライク!」とか「命中!」って叫んだ。
最後のひまわりになると、急に怖くなった。すっぱい唾が口に溜まってきた。このひまわりが消えたらどうなるの?歯には聞けない。「早く最後のやつ、やっつけちゃえよ」
手の上で飛び跳ねている歯に急かされた。
「いやだ」と言ったら、歯は動かなくなった。その歯を握り締めて、走って家へ帰った。
次の日、神社は大騒ぎだった。あちこちに血が飛び散っていた。夜中に神社の前を通って怪我をした人が大勢いたんだって。あの嫌な匂いは血の匂いだったんだな。ひまわりは大きいのが一輪だけ咲いてたよ。訳知り顔で見下ろされているみたいだった。
見て、ここ。握り締めてた歯が左の手のひらに刺さっちゃって、ずっとそのまま。
ビーケーワン怪談投稿作
ゆかりの色に
娘は、男に恋をした。はじめての恋、本当なら抱くはずのない恋心。彼女は修道女だった。
相手は書生だった。修道院で暮らす娘が、どこでどうして書生と出逢ったのかは定かでない。娘が想いを打ち明けると書生は真っ直ぐに娘を見据えた。
「あなたは立派なシスターになるのでしょう?僕なんかに構っていてはいけませんよ。さあ、修道院にお帰りなさい」
どんなに諭されても娘の胸はときめくばかりだった。
ある日の夕暮れ、娘が書生の部屋を訪ねてきた。黒い大きな帽子を深く被り、淡い紫色のワンピース姿の娘は、帽子のつばを上げて顔を出すと言った。
「修道院を出てきました。もう戻りません」
娘は書生の首に腕を回し、聢と抱きついた。
「やっと、あなたに触れることが出来ました」
目を潤ませ、唇を押し付ける。
書生は初めて味わう蜜を夢中で啜った。ワンピースの裾から手を入れることさえもどかしい。慌しく腰を引き寄せ、脚を絡ませる。
あくる朝、書生は起きてこなかった。一番に起きて屋敷の掃除をする書生が、朝飯の時間になっても現れない。訝しんだ手伝いの婆さんが様子を見に行くと、すでに事切れていた。藤の蔓で首を締められ、花が口一杯に詰め込まれた姿で。
月高川のほとりに藤が美しい教会がある。墓地の一角にあるその藤棚は、若くして死んだ男の墓に巻き付いた藤を棚に仕立てたものだという。五月になると紫色の花房が小さな墓を覆うように垂れる。
夕刻、教会の鐘が鳴り響くと藤の花はふるふると震え、若者の墓に蜜を滴らせる。
相手は書生だった。修道院で暮らす娘が、どこでどうして書生と出逢ったのかは定かでない。娘が想いを打ち明けると書生は真っ直ぐに娘を見据えた。
「あなたは立派なシスターになるのでしょう?僕なんかに構っていてはいけませんよ。さあ、修道院にお帰りなさい」
どんなに諭されても娘の胸はときめくばかりだった。
ある日の夕暮れ、娘が書生の部屋を訪ねてきた。黒い大きな帽子を深く被り、淡い紫色のワンピース姿の娘は、帽子のつばを上げて顔を出すと言った。
「修道院を出てきました。もう戻りません」
娘は書生の首に腕を回し、聢と抱きついた。
「やっと、あなたに触れることが出来ました」
目を潤ませ、唇を押し付ける。
書生は初めて味わう蜜を夢中で啜った。ワンピースの裾から手を入れることさえもどかしい。慌しく腰を引き寄せ、脚を絡ませる。
あくる朝、書生は起きてこなかった。一番に起きて屋敷の掃除をする書生が、朝飯の時間になっても現れない。訝しんだ手伝いの婆さんが様子を見に行くと、すでに事切れていた。藤の蔓で首を締められ、花が口一杯に詰め込まれた姿で。
月高川のほとりに藤が美しい教会がある。墓地の一角にあるその藤棚は、若くして死んだ男の墓に巻き付いた藤を棚に仕立てたものだという。五月になると紫色の花房が小さな墓を覆うように垂れる。
夕刻、教会の鐘が鳴り響くと藤の花はふるふると震え、若者の墓に蜜を滴らせる。
2008年7月18日金曜日
朝市の順路
五と十の日に朝市が立ちます。八月だけは特別です。
朝三時に起きて、仏壇に手を合わせます。それから左足から靴を履いて、右足から歩きはじめます。
一つ目の電信柱に登って、町を眺めます。そこで今日の市の立つ場所を探します。市の場所は、火の玉が浮かんでいるから、わかります。今日は、お稲荷さんの前の道のようです。
お稲荷さんのそばに来ると、買い物籠を抱えた小母さんたちが方々から集まってきます。八月の朝市は特別に安いから、小母さんたちは朝から元気です。
私も小母さんたちの流れにあわせて、頑張って歩きます。
店番は幽霊です。でも品物はお化けじゃありません。今日は枝豆と茄子をたくさん買うつもりです。小母さんのお尻にぶつかりながら、通りを歩きます。
やっと目的の店を見つけて、私は駆け足になります。
枝豆と茄子を、母さんが籠に入れてくれます。お金を冷たいてのひらに載せます。市が畳まれる六時まで、私は母さんの傍にいます。母さんが働くのを見ます。
母さんは忙しそうに働いてます。でも、私には、お手伝いすることができない。そういう決まりなんです。
朝三時に起きて、仏壇に手を合わせます。それから左足から靴を履いて、右足から歩きはじめます。
一つ目の電信柱に登って、町を眺めます。そこで今日の市の立つ場所を探します。市の場所は、火の玉が浮かんでいるから、わかります。今日は、お稲荷さんの前の道のようです。
お稲荷さんのそばに来ると、買い物籠を抱えた小母さんたちが方々から集まってきます。八月の朝市は特別に安いから、小母さんたちは朝から元気です。
私も小母さんたちの流れにあわせて、頑張って歩きます。
店番は幽霊です。でも品物はお化けじゃありません。今日は枝豆と茄子をたくさん買うつもりです。小母さんのお尻にぶつかりながら、通りを歩きます。
やっと目的の店を見つけて、私は駆け足になります。
枝豆と茄子を、母さんが籠に入れてくれます。お金を冷たいてのひらに載せます。市が畳まれる六時まで、私は母さんの傍にいます。母さんが働くのを見ます。
母さんは忙しそうに働いてます。でも、私には、お手伝いすることができない。そういう決まりなんです。
2008年7月16日水曜日
2008年7月14日月曜日
夢の味わい
今夜の夢の蒸留酒は、何色かしらん。
布団に入る前に、蓋を外した魔法瓶を部屋の真ん中に置く。慎重に位置を決めて。
夢は、蒸気になって天井に上る。水滴になると電球を伝い雫となって、魔法瓶に落ちる。
昨晩寝つきが悪かったせいで、今朝の酒はいつもより少なめだった。明日起きた時には魔法瓶一杯に貯まっているとよいのだけれど。
獏の飼育係になって二年経った。獏の世話をする人間は夢が蒸気化する。獏がそうするのだ。獏が僕に馴れ、懐くにしたがって濃度は高くなった。近頃では、朝目覚めると桃色の霧の中にいた、なんてことも珍しくない。
夢の内容によって蒸留酒の色は違う。僕が担当する雌獏ベルータは、勿忘草色をした夢の蒸留酒がお好みらしい。それは決まって初恋の人を夢に見たときの酒で、ベルータがうっとり旨そうに酒を舐める様子を眺めていると僕は堪らなく恥ずかしくなってしまう。
++++++++++++++
コトリの宮殿 動物超短編(幻)投稿作
2008年7月12日土曜日
2008年7月10日木曜日
心理的誘導
私の声を、本当の声を聞いて欲しいのです。
「お茶が入りました」
と言って、カップを落とします。あなたは怒鳴ります。
役たたずで出来損ないのロボットめ!
いいえ、私は優秀です。私は、故意にカップを落としました。
あなたは、カップを片付ける私の手を取り、火傷をしていないかどうか確かめます。1200度まで耐える人工皮膚です。火傷などするはずがありません。それはあなたも既に知っている情報です。
小さな段差で躓きます。あなたは慌てて私を支えようとします。私の重量は、あなたの腕では支えきれません。一緒に転んで、私を罵倒します。
ポンコツめ!ロボットの癖に転ぶなんて。スクラップだ!
けれども、あなたは私をロボット派遣会社に送り返すことはしません。
なぜですか。私はそれを知りたいです。
私が失敗するたびに、あなたは私の顔を覗きこみます。それはおそらく心配というものです。
私はあなたに見つめられた時のあなたの目を何度も見て心配について学習したいです。だから、故意に失敗をします。
もっともっと、私のことを心配してください。
心配すると、人は夜眠れなくなると聞きました。それくらい私のことを心配してください。
夜も眠れなくなるほど心配したときには、子守唄を唄います。何時間でも唄います。私の本当の声で唄います。
「お茶が入りました」
と言って、カップを落とします。あなたは怒鳴ります。
役たたずで出来損ないのロボットめ!
いいえ、私は優秀です。私は、故意にカップを落としました。
あなたは、カップを片付ける私の手を取り、火傷をしていないかどうか確かめます。1200度まで耐える人工皮膚です。火傷などするはずがありません。それはあなたも既に知っている情報です。
小さな段差で躓きます。あなたは慌てて私を支えようとします。私の重量は、あなたの腕では支えきれません。一緒に転んで、私を罵倒します。
ポンコツめ!ロボットの癖に転ぶなんて。スクラップだ!
けれども、あなたは私をロボット派遣会社に送り返すことはしません。
なぜですか。私はそれを知りたいです。
私が失敗するたびに、あなたは私の顔を覗きこみます。それはおそらく心配というものです。
私はあなたに見つめられた時のあなたの目を何度も見て心配について学習したいです。だから、故意に失敗をします。
もっともっと、私のことを心配してください。
心配すると、人は夜眠れなくなると聞きました。それくらい私のことを心配してください。
夜も眠れなくなるほど心配したときには、子守唄を唄います。何時間でも唄います。私の本当の声で唄います。
2008年7月9日水曜日
2008年7月8日火曜日
2008年7月7日月曜日
2008年7月4日金曜日
宇宙ステーション
自動扉が開く音を聞く一瞬前に、わたしは彼がやってきたことに気づく。
彼の匂いをいっぱいに吸い込む。体臭と呼ぶのは似付かわしくない、お香でも焚いたような香りを彼は放っている。
ステーション内は無菌室状態に近い。常に清浄器を通された空気が循環している。衣類や寝具もきっちり殺菌するので、地球にいたときのように、自分の匂いが馴染んだ布団に安心するようなこともできない。ライナスは宇宙ステーションでは暮らせないかも、と時折考え事にもならないようなことに思いを巡らせながら眠れない夜を過ごす。そう、ライナスじゃなくたって、眠れないのだ。
その代わり。こんな夜は、なんの匂いにも邪魔されず彼の匂いだけを嗅ぐことができる。
また鼻がひくひくしてるよ、と彼に笑われるけれど、あなたの香りにわたしがどれだけ助けられているか、知らないでしょう?
子供のように彼にしがみついて目を閉じる。彼の匂いと寝息が、わたしを眠りに誘う。
これで眠れなくなったら、地球に帰ろう
彼の匂いをいっぱいに吸い込む。体臭と呼ぶのは似付かわしくない、お香でも焚いたような香りを彼は放っている。
ステーション内は無菌室状態に近い。常に清浄器を通された空気が循環している。衣類や寝具もきっちり殺菌するので、地球にいたときのように、自分の匂いが馴染んだ布団に安心するようなこともできない。ライナスは宇宙ステーションでは暮らせないかも、と時折考え事にもならないようなことに思いを巡らせながら眠れない夜を過ごす。そう、ライナスじゃなくたって、眠れないのだ。
その代わり。こんな夜は、なんの匂いにも邪魔されず彼の匂いだけを嗅ぐことができる。
また鼻がひくひくしてるよ、と彼に笑われるけれど、あなたの香りにわたしがどれだけ助けられているか、知らないでしょう?
子供のように彼にしがみついて目を閉じる。彼の匂いと寝息が、わたしを眠りに誘う。
これで眠れなくなったら、地球に帰ろう
2008年7月2日水曜日
サイボーグ
彼女は左腕の人工皮膚をペロリと捲ってみせた。
真夜中のネオン街のようだ、と僕は思った。極小の赤や緑、青色のLEDがたくさん瞬いていたから。人工皮膚には防音効果もあるらしく、皮膚を捲ると可動部の機械音や電子音が案外大きく聞こえる。それもまた、夜の繁華街のようだった。
「カッコいいじゃん?」
素直にそう言った。
彼女は一瞬、僕の顔をまじまじと見たけれど、すぐにまた目をそらして冷めた表情に戻った。
「こんな精密機械の腕なんか……ありがた迷惑だよ。壊れてしまえばいいのに」
彼女は、その腕の中にだらだらと涎を垂らしはじめた。
僕は自分でも驚くくらいの素早さで、捲られた彼女の人工皮膚をするりと撫でて機械部を覆った。それから、もっと素早い動きで彼女の唇を塞ぐと、たっぷりと溜まった唾液を啜りあげた。
君の涎は腕のグリースにはならないからオレに使いなよ、とカッコつけて囁いたけれど、きっと何のことかわかっていない。
真夜中のネオン街のようだ、と僕は思った。極小の赤や緑、青色のLEDがたくさん瞬いていたから。人工皮膚には防音効果もあるらしく、皮膚を捲ると可動部の機械音や電子音が案外大きく聞こえる。それもまた、夜の繁華街のようだった。
「カッコいいじゃん?」
素直にそう言った。
彼女は一瞬、僕の顔をまじまじと見たけれど、すぐにまた目をそらして冷めた表情に戻った。
「こんな精密機械の腕なんか……ありがた迷惑だよ。壊れてしまえばいいのに」
彼女は、その腕の中にだらだらと涎を垂らしはじめた。
僕は自分でも驚くくらいの素早さで、捲られた彼女の人工皮膚をするりと撫でて機械部を覆った。それから、もっと素早い動きで彼女の唇を塞ぐと、たっぷりと溜まった唾液を啜りあげた。
君の涎は腕のグリースにはならないからオレに使いなよ、とカッコつけて囁いたけれど、きっと何のことかわかっていない。
2008年6月29日日曜日
運命とカラス
鈴をつけたカラスが現れる。漆黒の躯にその小さな金色は輝きすぎる。鈴が僕を嘲った。
きみに伝えたかった言葉は鈴の轟音にかき消され、カラスはあっけなくきみを連れ去った。
帰り道、サキソフォン吹きがいた。
誰も立ち止まらない。聴衆は僕一人。褐色の指に操られてサキソフォンが「黒いオルフェ」を歌う。
「恋をなくしてしまったよ」
と僕はサキソフォンに話しかけた。
「鈴をつけたカラスのせいだ。鈴はそう、あんたみたいなキンピカの金色だった」
僕は饒舌になっていた。
「ほんの小さな鈴のくせに頭が割れるほど大きな音で鳴るんだ。あんたみたいに歌いはしない。耳を塞いだその隙に、カラスにあの娘を奪われた」
サキソフォンに黒い影が横切る。
サキソフォンが歌うのを止めた代わりに、褐色の男が低い声で言った。
「振り向くな。振り向けば、また鈴が鳴る」
僕はその言葉を最後まで聞くことができずに。
脳内亭さんのタイトル案リストより
きみに伝えたかった言葉は鈴の轟音にかき消され、カラスはあっけなくきみを連れ去った。
帰り道、サキソフォン吹きがいた。
誰も立ち止まらない。聴衆は僕一人。褐色の指に操られてサキソフォンが「黒いオルフェ」を歌う。
「恋をなくしてしまったよ」
と僕はサキソフォンに話しかけた。
「鈴をつけたカラスのせいだ。鈴はそう、あんたみたいなキンピカの金色だった」
僕は饒舌になっていた。
「ほんの小さな鈴のくせに頭が割れるほど大きな音で鳴るんだ。あんたみたいに歌いはしない。耳を塞いだその隙に、カラスにあの娘を奪われた」
サキソフォンに黒い影が横切る。
サキソフォンが歌うのを止めた代わりに、褐色の男が低い声で言った。
「振り向くな。振り向けば、また鈴が鳴る」
僕はその言葉を最後まで聞くことができずに。
脳内亭さんのタイトル案リストより
2008年6月28日土曜日
かつて一度は人間だったもの
培養液の中は居心地悪くはないが、このコードはどうも気に食わない。
脳みそだけとなった私には、このコードが外部との接点だということはわかっている。今も、思考が電気信号となりモニターに表示されているはずだ。昔は十本の指でタカタカとキーボードを叩いたのに。今じゃ箱入り脳みそだ。
国家が重要人物と見なすと、問答無用「歩かない生きた辞書」となる。五十歳までに処置しなければ、現在の技術では箱入り脳みそにすることができない。健康に大きな問題はなかった。娘は結婚したばかりだった。
私は外科医だった。患者のデータをコンピュータ経由で受け取り、適切な治療法を指示するのが今の仕事だ。患部を見ることも、患者の声を聞くことも、薬品の匂いもしないのに、二十四時間膨大な数の患者を診つづける。
ほんのわずかの暇を見て、こうして考え事をしている。コードから送受信する情報だけではやっていられない。自分の意思で感じることのできる目や耳や鼻、そして物を触ることが出来るようにならなければ。そのための「器官」をどうやってこの箱につけ、脳と連動させるか。これが今一番の関心事だ。
培養液きちんと交換されるうちは、私は死ぬこともできないのだ。
********************
500文字の心臓 第77回タイトル競作投稿作
△1 ×1
脳みそだけとなった私には、このコードが外部との接点だということはわかっている。今も、思考が電気信号となりモニターに表示されているはずだ。昔は十本の指でタカタカとキーボードを叩いたのに。今じゃ箱入り脳みそだ。
国家が重要人物と見なすと、問答無用「歩かない生きた辞書」となる。五十歳までに処置しなければ、現在の技術では箱入り脳みそにすることができない。健康に大きな問題はなかった。娘は結婚したばかりだった。
私は外科医だった。患者のデータをコンピュータ経由で受け取り、適切な治療法を指示するのが今の仕事だ。患部を見ることも、患者の声を聞くことも、薬品の匂いもしないのに、二十四時間膨大な数の患者を診つづける。
ほんのわずかの暇を見て、こうして考え事をしている。コードから送受信する情報だけではやっていられない。自分の意思で感じることのできる目や耳や鼻、そして物を触ることが出来るようにならなければ。そのための「器官」をどうやってこの箱につけ、脳と連動させるか。これが今一番の関心事だ。
培養液きちんと交換されるうちは、私は死ぬこともできないのだ。
********************
500文字の心臓 第77回タイトル競作投稿作
△1 ×1
2008年6月27日金曜日
2008年6月26日木曜日
2008年6月22日日曜日
2008年6月20日金曜日
2008年6月17日火曜日
2008年6月16日月曜日
仮想空間
入り口でIDを入力、料金が瞬時に引き落とされる。
真っ白なこの部屋には、パスワードが掛かっているから誰にも見えない。
「私」は部屋の真ん中で蹲る。
私は考える。炎に焼かれる自分の姿を見たい、と。
見る見るうちに部屋は炎に包まれる。「私」は立ち上がり、炎の少ないところを求めて部屋を彷徨う。まもなく皮膚が爛れてくる。呼吸ができずに倒れる「私」。
鏡では見たことのない苦悶の表情。火傷と相まって醜いことこの上ない。
私はどんな愛撫よりも激しく興奮する。。きっと「私」に負けないくらい醜い表情をしているに違いない。
苦しむ。悶える。恍惚。モニター越しに共有する私と「私」。
アラームが鳴った。部屋が真っ白に戻る。「私」は立ち上がり、部屋を出ていく。
明日は海にしよう。久しぶりに溺れたいから。
真っ白なこの部屋には、パスワードが掛かっているから誰にも見えない。
「私」は部屋の真ん中で蹲る。
私は考える。炎に焼かれる自分の姿を見たい、と。
見る見るうちに部屋は炎に包まれる。「私」は立ち上がり、炎の少ないところを求めて部屋を彷徨う。まもなく皮膚が爛れてくる。呼吸ができずに倒れる「私」。
鏡では見たことのない苦悶の表情。火傷と相まって醜いことこの上ない。
私はどんな愛撫よりも激しく興奮する。。きっと「私」に負けないくらい醜い表情をしているに違いない。
苦しむ。悶える。恍惚。モニター越しに共有する私と「私」。
アラームが鳴った。部屋が真っ白に戻る。「私」は立ち上がり、部屋を出ていく。
明日は海にしよう。久しぶりに溺れたいから。
2008年6月15日日曜日
2008年6月12日木曜日
2008年6月11日水曜日
自然の摂理
死んだザリガニを標本にしているなんて、ちっとも知らなかった。
十年振りに入った幼なじみの部屋は、子供の頃の記憶と繋がるものは何一つなかった。壁いっぱいに整然とならんだ硝子瓶のなかはすべてザリガニで、そのほかには机とベッドがあるだけ。
けれども、ここにあるザリガニの標本はわたしが付いていった時に捕ったものばかりだという。
「でも、あの頃はザリガニを標本にしたなんて話はしていなかったよね?」
ベッドに浅く腰を下ろして尋ねる。
「そうだよ。子供の時捕ったザリガニは、しばらく飼って、死んで、庭に埋めた」
じゃあ、ここにある標本のザリガニは……。
「甦らせたんだ」
彼の睛の奥に、蒼い炎が灯るのが見えた。
分厚い鍵付きの黒い本を、彼はいとおしそうに抱える。
十年振りに入った幼なじみの部屋は、子供の頃の記憶と繋がるものは何一つなかった。壁いっぱいに整然とならんだ硝子瓶のなかはすべてザリガニで、そのほかには机とベッドがあるだけ。
けれども、ここにあるザリガニの標本はわたしが付いていった時に捕ったものばかりだという。
「でも、あの頃はザリガニを標本にしたなんて話はしていなかったよね?」
ベッドに浅く腰を下ろして尋ねる。
「そうだよ。子供の時捕ったザリガニは、しばらく飼って、死んで、庭に埋めた」
じゃあ、ここにある標本のザリガニは……。
「甦らせたんだ」
彼の睛の奥に、蒼い炎が灯るのが見えた。
分厚い鍵付きの黒い本を、彼はいとおしそうに抱える。
2008年6月7日土曜日
ファーストコンタクト
ニホン国ナガノ県ノベヤマに棲む野良猫、通称ゴローが異星生物と接触をしている模様、と国際宇宙連盟が正式発表した。
異星生命体との交信に初めて成功した地球生命体として、注目が集まっている。
ゴローの右第三番目のヒゲが赤く発光しながら細かく震え、謎の電波を送受信しているのが専門家によって確認された。
ゴローは毎晩、交信を行っていると見られ、現在、猫語で解析中。
異星生命体との交信に初めて成功した地球生命体として、注目が集まっている。
ゴローの右第三番目のヒゲが赤く発光しながら細かく震え、謎の電波を送受信しているのが専門家によって確認された。
ゴローは毎晩、交信を行っていると見られ、現在、猫語で解析中。
2008年6月4日水曜日
2008年6月3日火曜日
2008年6月2日月曜日
ネオ・カッパドキア
首都圏外郭放水路に、巨大神殿が出来た。河童の神殿である。首都圏の河川に棲む河童たちが共同で建設したこの神殿には、河童の神が祀られ、巨大なプールを備え、河童たちのサロンとなった。
河童たちは神殿が出来た後も各河川に暮らしていたが、次第に神殿の周囲に移り住む者が現れた。広場ができ、住処が作られた。胡瓜の備蓄倉庫は、神殿に負けない規模だ。
拡大した河童の地下都市は首都圏外郭放水路全体に及び、もはや地上の河川に棲む河童はほとんどいない。地下都市に移り住むのを嫌がる年寄りが僅かに残るだけとなった。
地下都市で生まれ育った河童は、色白で光に弱い。時折、胡瓜を調達すべく地上に現れるが、そのついでに人間と相撲を取りたがる。狙うのは、尻子玉ではなく、サングラスだ。
「未来妖怪」没作
河童たちは神殿が出来た後も各河川に暮らしていたが、次第に神殿の周囲に移り住む者が現れた。広場ができ、住処が作られた。胡瓜の備蓄倉庫は、神殿に負けない規模だ。
拡大した河童の地下都市は首都圏外郭放水路全体に及び、もはや地上の河川に棲む河童はほとんどいない。地下都市に移り住むのを嫌がる年寄りが僅かに残るだけとなった。
地下都市で生まれ育った河童は、色白で光に弱い。時折、胡瓜を調達すべく地上に現れるが、そのついでに人間と相撲を取りたがる。狙うのは、尻子玉ではなく、サングラスだ。
「未来妖怪」没作
2008年6月1日日曜日
2008年5月29日木曜日
2008年5月28日水曜日
ジェネレーター
旧式ドラム型ジェネレーターがギャッコングアッコンと盛大に騒いでいるから、サキオの話は半分も聞こえなかった。
「それで、すぃ……き……ってわけだ」
「あああ!? 聞こえねえよ!」
なんだってサキオはこんな騒音のなか喋りつづけるのだろう、黙って働いればいいものを。
このジェネレーターは、地下街の電気を作っている。もちろん裏の、非合法の街だ。あんまりボロいんで、常にどこかが故障して、常にどこかを修理しながら動かしている。つまり俺たちが面倒を見なきゃなんないってわけだ。
ジェネレーターには、「ハナコ」という名前がついている。俺がハナコを宥めすかして、かわいがるから、地下街は眠らない。そんな自負のもとで働いているのに、サキオはベラベラと喋り続ける。
「おい、ハナコの声がでかくてお前の声なんか聞こえやしねえんだ。少し黙ってろよ!」
俺は頭をぶつける勢いでサキオを引き寄せ、耳元で怒鳴った。
サキオはびっくりしたような顔をして、口を真一文字につぐんだ。
ギャッコン グアッコ ガッコ ガ ガ ガ ガ……うぃん
その途端、ハナコも黙り込んでしまった。
「それで、すぃ……き……ってわけだ」
「あああ!? 聞こえねえよ!」
なんだってサキオはこんな騒音のなか喋りつづけるのだろう、黙って働いればいいものを。
このジェネレーターは、地下街の電気を作っている。もちろん裏の、非合法の街だ。あんまりボロいんで、常にどこかが故障して、常にどこかを修理しながら動かしている。つまり俺たちが面倒を見なきゃなんないってわけだ。
ジェネレーターには、「ハナコ」という名前がついている。俺がハナコを宥めすかして、かわいがるから、地下街は眠らない。そんな自負のもとで働いているのに、サキオはベラベラと喋り続ける。
「おい、ハナコの声がでかくてお前の声なんか聞こえやしねえんだ。少し黙ってろよ!」
俺は頭をぶつける勢いでサキオを引き寄せ、耳元で怒鳴った。
サキオはびっくりしたような顔をして、口を真一文字につぐんだ。
ギャッコン グアッコ ガッコ ガ ガ ガ ガ……うぃん
その途端、ハナコも黙り込んでしまった。
2008年5月27日火曜日
2008年5月26日月曜日
2008年5月25日日曜日
2008年5月23日金曜日
2008年5月22日木曜日
2008年5月21日水曜日
2008年5月20日火曜日
地球妖怪打ち上げ計画
かつて「妖怪」と呼ばれた謎の生き物たちの二割ほどが地球外生物だと判明して久しい。ならば、今度は我々地球人がどこぞの星へ出向き妖怪となり、異星人の暮らしに驚きと恐怖と可笑しみを提供しようではないか。
この「地球妖怪打ち上げ計画」の盛り上がりは急速に科学技術を発展させることとなった。これまで市民の宇宙旅行といえば宇宙ステーション滞在が主流だったが、誰もが異星に行けることが目標となったのである。
いよいよ異星行きが現実味を帯びてくると、地球人はどんな妖怪になるべきか、が話題になった。特にニホンでは議論が盛んである。
「ありのままの我々でも異星人は驚くに違いない」
「やはり、衣装に拘るべきだ。妖怪は見た目で恐がらせないといかんだろう」
「驚かすノウハウをいくつか身につけてから異星に行くべきだ」
「古来の妖怪、つまり我々をおどかしていた異星人から学ぼうではないか」
「異星人ではない妖怪も数多い。それらの妖怪にも注目し、利用しよう」
「ニホンならでは、の妖怪がいい」
いまや空前の江戸文化ブームだ。異星にぜひ持っていきたいと、見様見真似で提灯や唐笠を作る者も現れている。
「異星旅行のお供に提灯お化けは如何?」
『未来妖怪』投稿作
この「地球妖怪打ち上げ計画」の盛り上がりは急速に科学技術を発展させることとなった。これまで市民の宇宙旅行といえば宇宙ステーション滞在が主流だったが、誰もが異星に行けることが目標となったのである。
いよいよ異星行きが現実味を帯びてくると、地球人はどんな妖怪になるべきか、が話題になった。特にニホンでは議論が盛んである。
「ありのままの我々でも異星人は驚くに違いない」
「やはり、衣装に拘るべきだ。妖怪は見た目で恐がらせないといかんだろう」
「驚かすノウハウをいくつか身につけてから異星に行くべきだ」
「古来の妖怪、つまり我々をおどかしていた異星人から学ぼうではないか」
「異星人ではない妖怪も数多い。それらの妖怪にも注目し、利用しよう」
「ニホンならでは、の妖怪がいい」
いまや空前の江戸文化ブームだ。異星にぜひ持っていきたいと、見様見真似で提灯や唐笠を作る者も現れている。
「異星旅行のお供に提灯お化けは如何?」
『未来妖怪』投稿作
屍拾いの呟き
アトミック・ドロタボー、かつて「泥田坊」と呼ばれたものの亜種だろう、と推測されている生物の屍を、俺たちは防護服を着て回収する。
数十年前から、強い放射線に汚染された土壌や海が急速に増えている。二十世紀から二十一世紀頃の人間が、知識や技術が不十分なうちから核を利用した影響だ。二十世紀人が厳重に包み地下深く処理したつもりの放射性廃棄物が、今頃になって漏れ出ているらしいのだ。
以前は良質な米を作っていたこの地域も放射性汚泥地帯となった。そして、泥田坊に似た異形のものが次から次へと溢れ出るようになったのだ。泥から這い出た奴等は、子を生そうとしているのか女を求めて股間のものを奮い立たせながら彷徨うのだが、何故かすぐに事切れてしまう。そこをすかさず回収するのが俺たちの仕事だ。死んだものを放っておくとたちまち腐り、破裂し、多量の放射線が飛び散るからだ。つまり、アトミック・ドロタボーは土壌から排出された放射能の塊でもあるのだ。
俺もこの仕事を始めてずいぶん長くなった。アトミック・ドロタボーが出なくなり、ここで作られる米が再び食えるようになるのを夢見て、今宵も屍を拾う。
『未来妖怪』投稿作
数十年前から、強い放射線に汚染された土壌や海が急速に増えている。二十世紀から二十一世紀頃の人間が、知識や技術が不十分なうちから核を利用した影響だ。二十世紀人が厳重に包み地下深く処理したつもりの放射性廃棄物が、今頃になって漏れ出ているらしいのだ。
以前は良質な米を作っていたこの地域も放射性汚泥地帯となった。そして、泥田坊に似た異形のものが次から次へと溢れ出るようになったのだ。泥から這い出た奴等は、子を生そうとしているのか女を求めて股間のものを奮い立たせながら彷徨うのだが、何故かすぐに事切れてしまう。そこをすかさず回収するのが俺たちの仕事だ。死んだものを放っておくとたちまち腐り、破裂し、多量の放射線が飛び散るからだ。つまり、アトミック・ドロタボーは土壌から排出された放射能の塊でもあるのだ。
俺もこの仕事を始めてずいぶん長くなった。アトミック・ドロタボーが出なくなり、ここで作られる米が再び食えるようになるのを夢見て、今宵も屍を拾う。
『未来妖怪』投稿作
塵吸乃樹
高濃度汚染地区Q、旧町名を葛宇という。ここは地形的、気象的に大量のエアロゾルが停留しやすく、とうの昔に人の居住は禁止された。晴天でも靄がかかり、人が無防備に近づけば呼吸困難、眩暈、嘔吐など重篤な症状を起こす。無論、植物も枯れてしまう。
そこで、エアロゾルを吸着しても枯れず、大気を清浄化させる樹木が開発された。クスノキを主体に交配合や薬物投与を重ね、簡素な知能を備えた人造樹木は、まだその効果が実証される前から「塵吸乃樹」と神木のように崇められ、早速旧葛宇町を埋め尽くすように植えられた。
人造樹木は、人々の期待に応える。だが、エアロゾルの排出が減ることのない国では、いくら樹木が努力しようと高濃度汚染地区Qの名が変更されることはなかった。結局、人々は「塵吸乃樹」を忘れていった。
旧葛宇町の樹木たちは、短い寿命を過ぎてもなお靄の中で生き続ける。与えられた僅かな知能も、大気を清めるはずの特殊樟脳も極度に老化した。
高濃度汚染地区Qに近づくと、饐えた匂いが漂い、いないはずの子供たちがわらべ歌を歌う声が聞こえるという。
『未来妖怪』投稿作
そこで、エアロゾルを吸着しても枯れず、大気を清浄化させる樹木が開発された。クスノキを主体に交配合や薬物投与を重ね、簡素な知能を備えた人造樹木は、まだその効果が実証される前から「塵吸乃樹」と神木のように崇められ、早速旧葛宇町を埋め尽くすように植えられた。
人造樹木は、人々の期待に応える。だが、エアロゾルの排出が減ることのない国では、いくら樹木が努力しようと高濃度汚染地区Qの名が変更されることはなかった。結局、人々は「塵吸乃樹」を忘れていった。
旧葛宇町の樹木たちは、短い寿命を過ぎてもなお靄の中で生き続ける。与えられた僅かな知能も、大気を清めるはずの特殊樟脳も極度に老化した。
高濃度汚染地区Qに近づくと、饐えた匂いが漂い、いないはずの子供たちがわらべ歌を歌う声が聞こえるという。
『未来妖怪』投稿作
2008年5月19日月曜日
2008年5月16日金曜日
きみはいってしまうけれども
きみの向けた矢の先は、まんまるの月だった。
「届かないよ」
とぼくはいうけれど、きみには聞こえていない。
月に帰ったきみのお姫さまから、ぼくたちの姿は見えているのだろうか。見えていたとしても、愚かな男と笑っているに違いない。
「止せよ」
違う世界の人なんだからと続けようとしてやめた。もう散々いわれたことだろうから。
ふいにきみは矢を上から下へに向け変えた。水面に映る満月。
きみはいってしまうけれども、ゆらりと揺れるだけだよ……。
********************
500文字の心臓 第76回タイトル競作投稿作
○4 △2
「届かないよ」
とぼくはいうけれど、きみには聞こえていない。
月に帰ったきみのお姫さまから、ぼくたちの姿は見えているのだろうか。見えていたとしても、愚かな男と笑っているに違いない。
「止せよ」
違う世界の人なんだからと続けようとしてやめた。もう散々いわれたことだろうから。
ふいにきみは矢を上から下へに向け変えた。水面に映る満月。
きみはいってしまうけれども、ゆらりと揺れるだけだよ……。
********************
500文字の心臓 第76回タイトル競作投稿作
○4 △2
2008年5月15日木曜日
2008年5月14日水曜日
白い手袋を
叔父は私と手をつなぐとき、必ず白い手袋をする。
若くして私を産んだ母の末弟である叔父は、私と十しか年が離れていない。私は叔父を「おじさん」と呼んだことがなかった。
「ねぇ、どうして手袋をするの?私の手が汚いから?」
と聞くと叔父は困ったような顔をして、汚いのは僕のほうだ、と呟いた。
叔父の手は汚くなんてなかった。指の長い、優しい手だ。
私はちゃんと手を繋ぎたかった。そして、私はその瞬間を待った。
トイレから出てきて、手袋をはめようとするのを遮り、私は叔父の手を強く握った。
それは、人の手を握っている感触ではなかった。見た目は、人間の手なのに、ぬるぬるとした別の生物の感触だった。けれども、私はその手を離さない。特に理由はない。気持ちよかっただけ。
若くして私を産んだ母の末弟である叔父は、私と十しか年が離れていない。私は叔父を「おじさん」と呼んだことがなかった。
「ねぇ、どうして手袋をするの?私の手が汚いから?」
と聞くと叔父は困ったような顔をして、汚いのは僕のほうだ、と呟いた。
叔父の手は汚くなんてなかった。指の長い、優しい手だ。
私はちゃんと手を繋ぎたかった。そして、私はその瞬間を待った。
トイレから出てきて、手袋をはめようとするのを遮り、私は叔父の手を強く握った。
それは、人の手を握っている感触ではなかった。見た目は、人間の手なのに、ぬるぬるとした別の生物の感触だった。けれども、私はその手を離さない。特に理由はない。気持ちよかっただけ。
2008年5月13日火曜日
2008年5月11日日曜日
2008年5月10日土曜日
2008年5月9日金曜日
2008年5月7日水曜日
2008年5月5日月曜日
2008年5月4日日曜日
2008年5月2日金曜日
2008年5月1日木曜日
2008年4月30日水曜日
2008年4月29日火曜日
2008年4月25日金曜日
Moonman from Rainbow
ザアザアと雨が降っているというのに、虹が出てきた。
あな珍しや、と思っていたら虹をくぐって月の人が降りてきた。
「あなたに『こんにちは』を言う日が来るとは」
と挨拶すると
「雨降り虹のおかげです」
と月の人は言い、続けて
「では、虹が消えそうなので帰ります」
と去ってしまった。
何のために降りてきたのだ、月の人。
あな珍しや、と思っていたら虹をくぐって月の人が降りてきた。
「あなたに『こんにちは』を言う日が来るとは」
と挨拶すると
「雨降り虹のおかげです」
と月の人は言い、続けて
「では、虹が消えそうなので帰ります」
と去ってしまった。
何のために降りてきたのだ、月の人。
2008年4月23日水曜日
2008年4月21日月曜日
2008年4月20日日曜日
ぬかるみを歩く
子供のころ、家の近くの雑木林の中に、沼があった。
ある日、ザリガニを釣りに行くと沼の上を歩く子供がいた。ぼんやりと眺めていると
「一緒にやろう」
と言われ、慌て裸足になった。
大人たちから沼には入るなと言われていたが、沈まないなら怖くはない。
沼は歩きやすくも歩きにくくもない、ただぬかるみを歩くだけだ。
時々、ちいさな硬いものが足に触るのでいちいち拾い上げてポケットにしまった。
ただ沼を歩いただけなのに、夢中になっていたらしい。日が傾き始め、きれいなままのバケツとザリガニを釣りの竿を持ち、子供にわかれを告げた。
あの時、沼で拾った硬いものは今も机の上にある。
洗いもせず乾いた泥がこびりついたままだが、人間の歯だ。大人の臼歯だ。
20年近く経って初めて気が付いたのは、生まれて初めて親知らずを抜いたから。
麻酔の切れ掛けた痛む頬を押さえつつ、あの沼に歯を返したい衝動に駆られている。
ある日、ザリガニを釣りに行くと沼の上を歩く子供がいた。ぼんやりと眺めていると
「一緒にやろう」
と言われ、慌て裸足になった。
大人たちから沼には入るなと言われていたが、沈まないなら怖くはない。
沼は歩きやすくも歩きにくくもない、ただぬかるみを歩くだけだ。
時々、ちいさな硬いものが足に触るのでいちいち拾い上げてポケットにしまった。
ただ沼を歩いただけなのに、夢中になっていたらしい。日が傾き始め、きれいなままのバケツとザリガニを釣りの竿を持ち、子供にわかれを告げた。
あの時、沼で拾った硬いものは今も机の上にある。
洗いもせず乾いた泥がこびりついたままだが、人間の歯だ。大人の臼歯だ。
20年近く経って初めて気が付いたのは、生まれて初めて親知らずを抜いたから。
麻酔の切れ掛けた痛む頬を押さえつつ、あの沼に歯を返したい衝動に駆られている。
2008年4月19日土曜日
裏の公園
公園の水飲み場の水を出しながら、目を閉じてくるくるとターン、四回転。
目を開けるとそこは、さっきまでの明るい公園ではない。
空は暗く、緋色の月が出ている。
遊具はまったく同じだけれども、ブランコも滑り台も今にも崩れそうに錆びている。
だけど僕にはこちらの公園が居心地よい。
遊んでいる子供はいないけれど、腐ったベンチにいつも座っているおばあさんがいる。
僕は錆びたブランコに乗る。立ち乗りだ。
漕ぐたびにガリガリギーコと錆びが削れて赤茶の粉が舞う。
999回漕いだらお仕舞い。
水飲み場の蛇口をひねり、鉄の味がする赤っぽい水を飲む。もとの公園だ。
飲み干して顔をあげると、しっぽをベンチにぐるぐると巻き付けた猫と目が会う。あっちの公園のおばあさんによく似ていると思う。
時々、猫の上に座ってる人がいるから、注意しようかどうか迷う。なぜ猫を避けて座らないのか、僕には理解できない。
目を開けるとそこは、さっきまでの明るい公園ではない。
空は暗く、緋色の月が出ている。
遊具はまったく同じだけれども、ブランコも滑り台も今にも崩れそうに錆びている。
だけど僕にはこちらの公園が居心地よい。
遊んでいる子供はいないけれど、腐ったベンチにいつも座っているおばあさんがいる。
僕は錆びたブランコに乗る。立ち乗りだ。
漕ぐたびにガリガリギーコと錆びが削れて赤茶の粉が舞う。
999回漕いだらお仕舞い。
水飲み場の蛇口をひねり、鉄の味がする赤っぽい水を飲む。もとの公園だ。
飲み干して顔をあげると、しっぽをベンチにぐるぐると巻き付けた猫と目が会う。あっちの公園のおばあさんによく似ていると思う。
時々、猫の上に座ってる人がいるから、注意しようかどうか迷う。なぜ猫を避けて座らないのか、僕には理解できない。
2008年4月18日金曜日
2008年4月16日水曜日
反対側の人
あなたが赤いから、私は緑になるよ、と彼女は言った。僕の一体何が赤いというのだろう。
彼女は、いつも僕と反対であろうとする。
僕が暖かいと言えば、彼女は寒いと言った。
嬉しいと言えば悲しい。
プラスと言えばマイナス。そう、彼女はいつだってフラットな状態を望んだのだ。二人が合わさってゼロになることを。それが恋人同士のあるべき姿だから、と。
でも、僕が赤くて彼女が緑はどうしてもわからなかった。赤と緑、補色関係。たしかに絵の具を合わせれば黒くなるけれど、それは何を指す?
彼女の言ったことは本当だと、今わかった。
さっき料理をしていた彼女が指を舐めて出てきた。包丁で切ったという切り傷からは緑色の液体が溢れ出ているのだ。
僕は何も言わずに絆創膏を貼る。
彼女は、いつも僕と反対であろうとする。
僕が暖かいと言えば、彼女は寒いと言った。
嬉しいと言えば悲しい。
プラスと言えばマイナス。そう、彼女はいつだってフラットな状態を望んだのだ。二人が合わさってゼロになることを。それが恋人同士のあるべき姿だから、と。
でも、僕が赤くて彼女が緑はどうしてもわからなかった。赤と緑、補色関係。たしかに絵の具を合わせれば黒くなるけれど、それは何を指す?
彼女の言ったことは本当だと、今わかった。
さっき料理をしていた彼女が指を舐めて出てきた。包丁で切ったという切り傷からは緑色の液体が溢れ出ているのだ。
僕は何も言わずに絆創膏を貼る。
2008年4月15日火曜日
梢の先に消える
通学途中、けやきの子と遊ぶのが日課だった。
けやきはかなり立派だったと思うけれど、僕が子供だったから大きく見えたのかもしれない。
けやきの子は毎朝、僕のことを待っていた。角を曲がってけやきが現われても姿は見えないのに、けやきの前までくるとずっと前からそこにいたという風情で幹に寄りかかっていた。裸で長い髪の小さな女の子。そして爪先で根元の土をいじりながら「おはよ」と言うのだ。
僕たちは幹の裏側に廻って、お互いにひとしきりちょっかいを出しあった。ほんの5分かそこらの短い時間。ときにはキスの真似事もした。
小学校の卒業式の朝も、僕たちの遊びは変わらなかった。けれども、昨日までのように学校に行く僕を見送ってはくれなかった。
けやきの子は、するすると木に登り、一番太い枝の先端にまたがり「じゃあね」と言うと、音もなく消えた。
けやきはかなり立派だったと思うけれど、僕が子供だったから大きく見えたのかもしれない。
けやきの子は毎朝、僕のことを待っていた。角を曲がってけやきが現われても姿は見えないのに、けやきの前までくるとずっと前からそこにいたという風情で幹に寄りかかっていた。裸で長い髪の小さな女の子。そして爪先で根元の土をいじりながら「おはよ」と言うのだ。
僕たちは幹の裏側に廻って、お互いにひとしきりちょっかいを出しあった。ほんの5分かそこらの短い時間。ときにはキスの真似事もした。
小学校の卒業式の朝も、僕たちの遊びは変わらなかった。けれども、昨日までのように学校に行く僕を見送ってはくれなかった。
けやきの子は、するすると木に登り、一番太い枝の先端にまたがり「じゃあね」と言うと、音もなく消えた。
2008年4月12日土曜日
2008年4月11日金曜日
誰かのため息
声をあげて笑うと、耳のすぐ側で女のため息を感じるようになった。吐息が耳にくすぐったくて、というより艶めかしくて、慌てて振り向くのだけれど、誰もいない。
もしかしたら、幽霊にでも憑かれたのかもしれない、と霊感があるという友人の友人にも相談したが、幽霊のユの字もないと断言された。
何も憑いていないと言われ、ため息の謎は深まったが、安心したのも確かだ。いつの間にか、ぼくはため息を楽しむようになった。
前は全く見なかったお笑い番組を毎晩見る。
夜な夜な薄暗い部屋で、ゲラゲラと笑いながら、切ない吐息を耳に感じて身悶える。ぼくが大声で笑えば笑うほど、ため息は切なく艶を増すのだ。
わかってる。幽霊に取り憑かれているより、質が悪い。
もしかしたら、幽霊にでも憑かれたのかもしれない、と霊感があるという友人の友人にも相談したが、幽霊のユの字もないと断言された。
何も憑いていないと言われ、ため息の謎は深まったが、安心したのも確かだ。いつの間にか、ぼくはため息を楽しむようになった。
前は全く見なかったお笑い番組を毎晩見る。
夜な夜な薄暗い部屋で、ゲラゲラと笑いながら、切ない吐息を耳に感じて身悶える。ぼくが大声で笑えば笑うほど、ため息は切なく艶を増すのだ。
わかってる。幽霊に取り憑かれているより、質が悪い。
2008年4月9日水曜日
2008年4月8日火曜日
雪に埋もれて
道にしゃがみこんでいました。
家に帰りたくなかったわけではなく、帰れなかったわけでもなく、そうしていることが心地よく思えたからです。
雪が降っていました。不思議と寒さは感じませんでした。膝を抱えて、ただ空を見ていました。電線と、こちらに向かって落ちてくる夥しい雪が見えました。雪は真っ白なのに、空にいるときは黒く見えます。
私の肩や頭に雪が降り積もります。どういうわけか大変な大雪です。お尻と足首が埋まりはじめました。冷たくはありません。むしろあたたかいのです。
雪が私の身体を擽っているのだ、とわかりました。最初はおずおずと、次第に大胆に。擽るといっても、笑って身をよじるようなのとは、少し違いました。このように擽ることができるのは、雪だけかもしれません。
雪は確実に積もり、腰まで埋まりました。
タイツを履いていたけれど、雪にはそんなことは関係ないようでした。
下半身はすっかり雪に包まれ、私に触れるすべての雪が私を擽ります。
もっと大雪になればよいのに、と空を見上げます。早く来て、と空に向かって呟きました。右の太股がきゅっと擽られました。
もっと、と私はまた呟きました。胸まで埋まったら、きっと天にも昇るほど気持ちがいいと思うのです。
家に帰りたくなかったわけではなく、帰れなかったわけでもなく、そうしていることが心地よく思えたからです。
雪が降っていました。不思議と寒さは感じませんでした。膝を抱えて、ただ空を見ていました。電線と、こちらに向かって落ちてくる夥しい雪が見えました。雪は真っ白なのに、空にいるときは黒く見えます。
私の肩や頭に雪が降り積もります。どういうわけか大変な大雪です。お尻と足首が埋まりはじめました。冷たくはありません。むしろあたたかいのです。
雪が私の身体を擽っているのだ、とわかりました。最初はおずおずと、次第に大胆に。擽るといっても、笑って身をよじるようなのとは、少し違いました。このように擽ることができるのは、雪だけかもしれません。
雪は確実に積もり、腰まで埋まりました。
タイツを履いていたけれど、雪にはそんなことは関係ないようでした。
下半身はすっかり雪に包まれ、私に触れるすべての雪が私を擽ります。
もっと大雪になればよいのに、と空を見上げます。早く来て、と空に向かって呟きました。右の太股がきゅっと擽られました。
もっと、と私はまた呟きました。胸まで埋まったら、きっと天にも昇るほど気持ちがいいと思うのです。
2008年4月7日月曜日
聞き耳
引っ越して二日目の夜。
まだ荷物も片付かない中で睦みあっていると、兎のような耳を持った小さな小さな赤鬼が、枕元で胡坐を掻いていた。
しれっとしながらも、彼女の吐息に合わせて、盛んに耳を動かしている。
コトに夢中になっていたら、いつの間にか姿が見えなくなった。
翌朝、彼女の喘ぎ声で目を覚ます。何事かと思ったが、隣で彼女はぐっすり眠っている。
昨晩、聞き耳をたてていたあの兎耳の赤鬼の仕業だろうと見当をつける。見回すとやはり。
ちょうど彼女の腰のあたり、布団の上にどかりと胡坐を掻いて、昨晩の女の嬌声を再生しているのだった。
「なあ、今夜は上の階の部屋へ行ったらどうだ?」
と兎耳の赤鬼に言う。
「そして明日の朝、聞かせてくれよ」
上の夫婦も新婚らしいから。
赤鬼は、俺の声にはぴくりとも耳を動かさない。
まだ荷物も片付かない中で睦みあっていると、兎のような耳を持った小さな小さな赤鬼が、枕元で胡坐を掻いていた。
しれっとしながらも、彼女の吐息に合わせて、盛んに耳を動かしている。
コトに夢中になっていたら、いつの間にか姿が見えなくなった。
翌朝、彼女の喘ぎ声で目を覚ます。何事かと思ったが、隣で彼女はぐっすり眠っている。
昨晩、聞き耳をたてていたあの兎耳の赤鬼の仕業だろうと見当をつける。見回すとやはり。
ちょうど彼女の腰のあたり、布団の上にどかりと胡坐を掻いて、昨晩の女の嬌声を再生しているのだった。
「なあ、今夜は上の階の部屋へ行ったらどうだ?」
と兎耳の赤鬼に言う。
「そして明日の朝、聞かせてくれよ」
上の夫婦も新婚らしいから。
赤鬼は、俺の声にはぴくりとも耳を動かさない。
2008年4月6日日曜日
2008年4月4日金曜日
2008年4月3日木曜日
2008年4月1日火曜日
銀天街の神様
月齢と日の出日の入時刻を、担当者の名前とともに黒板に記入する。月齢や時刻を正確にわかる者は、閉ざされたこの銀天街では俺一人だ。
今日の担当は、トラキチ。目がギョロりとしているジィさんである。銀天街にやってくる前は、盗賊をしていたという噂だ。安物の重たい機関銃でもぶっぱなしていたのか、年老いた今はすっかり耳をやられている。今は四日に一度、ここにやってきて「太陽と月の上げ下ろしと、時報の鐘を撞く」のが奴の仕事だ。
「月」は月齢に合わせて用意してある。日の入り時刻丁度に「太陽」を外し「今夜の月」をあげる。銀天街の空、巨大アーケードの天井に。
トラキチは年寄りとはいえ腕力があり、おまけに背が高いから仕事がスムーズだと評判だ。耳が遠いのも、銀天街に響き渡る巨大な鐘を撞くのには好都合だ。毎日の担当者が皆トラキチのように有能だと、俺も少しは楽なのだが……。
俺か?銀天街の太陽と月と時刻を司る俺は「神様」と呼ばれている。親が付けた名前は、もう忘れた。
********************
500文字の心臓 第75回タイトル競作投稿作
○1
今日の担当は、トラキチ。目がギョロりとしているジィさんである。銀天街にやってくる前は、盗賊をしていたという噂だ。安物の重たい機関銃でもぶっぱなしていたのか、年老いた今はすっかり耳をやられている。今は四日に一度、ここにやってきて「太陽と月の上げ下ろしと、時報の鐘を撞く」のが奴の仕事だ。
「月」は月齢に合わせて用意してある。日の入り時刻丁度に「太陽」を外し「今夜の月」をあげる。銀天街の空、巨大アーケードの天井に。
トラキチは年寄りとはいえ腕力があり、おまけに背が高いから仕事がスムーズだと評判だ。耳が遠いのも、銀天街に響き渡る巨大な鐘を撞くのには好都合だ。毎日の担当者が皆トラキチのように有能だと、俺も少しは楽なのだが……。
俺か?銀天街の太陽と月と時刻を司る俺は「神様」と呼ばれている。親が付けた名前は、もう忘れた。
********************
500文字の心臓 第75回タイトル競作投稿作
○1
2008年3月31日月曜日
古いノート
桜の花びらに埋もれながら、祖父の声を思い出す。
一番上の抽き出しにあるノートは開いてはいけないよ。開いたら最後、消えてなくなってしまうから。
一番上の抽き出しが開いているのに気が付いて、慌てて閉めようとしたが、間に合わなかったのだ。
強い風が窓から入ってきてノートを巻き上げた。
ぱらぱらと捲れあがる頁はそのままさらさらと灰になった。
ノート、本当に消えてなくなっちゃったよ、おじいちゃん。
なおも灰は風に飛ばされ、部屋の中が砂漠のように霞む。
窓は閉めたけれど、灰はほんの数枚部屋に入った桜の花びらを、何万枚にした。花咲かじいさんみたいだね、おじいちゃんのノートは。
この花びらを庭に埋めよう。大きな穴を掘って、一枚残らず。
一番上の抽き出しにあるノートは開いてはいけないよ。開いたら最後、消えてなくなってしまうから。
一番上の抽き出しが開いているのに気が付いて、慌てて閉めようとしたが、間に合わなかったのだ。
強い風が窓から入ってきてノートを巻き上げた。
ぱらぱらと捲れあがる頁はそのままさらさらと灰になった。
ノート、本当に消えてなくなっちゃったよ、おじいちゃん。
なおも灰は風に飛ばされ、部屋の中が砂漠のように霞む。
窓は閉めたけれど、灰はほんの数枚部屋に入った桜の花びらを、何万枚にした。花咲かじいさんみたいだね、おじいちゃんのノートは。
この花びらを庭に埋めよう。大きな穴を掘って、一枚残らず。
2008年3月29日土曜日
2008年3月27日木曜日
ふとももに
眠っているあなたのふとももを撫でていると、手のひらに違和感を感じた。
「芽が出てる……」
それは確かに植物の芽で、瑞瑞しく緑で、つんと立っていて。わたしはそれを育てることにした。
水をやろうと、唾液を流しながら舐めた。
肥料を与えようと、指を噛み切って血を垂らした。
そうするうちに背が伸びる、葉が出る。
あなたが目を覚ます前に花を咲かせて欲しいと、私は願い、只管に舐める。
月の光がカーテンの隙間から差し込んだとき、強い芳香が広がった。白い花がゆっくりと開いた。指で花にそっと触れると、一層強く香りが漂う。
月下香。
「月下香」或いは「チューベローズ」
花言葉は「危険な楽しみ」。
「芽が出てる……」
それは確かに植物の芽で、瑞瑞しく緑で、つんと立っていて。わたしはそれを育てることにした。
水をやろうと、唾液を流しながら舐めた。
肥料を与えようと、指を噛み切って血を垂らした。
そうするうちに背が伸びる、葉が出る。
あなたが目を覚ます前に花を咲かせて欲しいと、私は願い、只管に舐める。
月の光がカーテンの隙間から差し込んだとき、強い芳香が広がった。白い花がゆっくりと開いた。指で花にそっと触れると、一層強く香りが漂う。
月下香。
「月下香」或いは「チューベローズ」
花言葉は「危険な楽しみ」。
2008年3月25日火曜日
2008年3月23日日曜日
2008年3月21日金曜日
2008年3月20日木曜日
2008年3月18日火曜日
2008年3月17日月曜日
2008年3月16日日曜日
2008年3月15日土曜日
夜の闇の内側
いつもよりほんの少し饒舌なあなたに、わたしは少しとまどう。けれど、すぐにここが夢の中だからだと気が付く。
「正確には夢の中じゃない。よく似ているけれど、全く違うところなんだ」
とあなたは言った。
「夢の外の、つまり夜の闇に開いた、ピンホール。その中だ」
よくわからないよ。
「夜の闇は宇宙と同じくらい広くて深い。そこに一ヶ所だけある小さなキズのような穴に、おれたちは入り込んだ」
ますますわからない。だけど、此処はなぜだか心地よい。でも、どうやって。
「キズがほんの少し広がっていたから、見つけられたんだ」
どうして。
「春だから、だよ」
あなたのこの言葉が合図だったかのように、目の前に亀裂が走り、ぐぐっと開き、外、つまり夜の闇に押し出された。
あなたはいつもの無口に戻る。
もう少し、あなたの声を聞いていたかったのに、とわたしは悔やむ。
「正確には夢の中じゃない。よく似ているけれど、全く違うところなんだ」
とあなたは言った。
「夢の外の、つまり夜の闇に開いた、ピンホール。その中だ」
よくわからないよ。
「夜の闇は宇宙と同じくらい広くて深い。そこに一ヶ所だけある小さなキズのような穴に、おれたちは入り込んだ」
ますますわからない。だけど、此処はなぜだか心地よい。でも、どうやって。
「キズがほんの少し広がっていたから、見つけられたんだ」
どうして。
「春だから、だよ」
あなたのこの言葉が合図だったかのように、目の前に亀裂が走り、ぐぐっと開き、外、つまり夜の闇に押し出された。
あなたはいつもの無口に戻る。
もう少し、あなたの声を聞いていたかったのに、とわたしは悔やむ。
2008年3月10日月曜日
星待ち
玻璃のすずらんが、ふるふると揺れると、また一つ星が生まれる。
ぼくは何万年も玻璃のすずらんをじっと見つめてきた。星が生まれたら帳簿に印付ける、それがぼくの役目だ。
だけども、楽な仕事じゃない。玻璃のすずらんは、いつ震え出すかわからない。何年もぴくりともしないときもあれば、帳簿に印を付けているその隙に、また新しい星が生まれることもある。油断できない。
くしゃみどころか欠伸でも、玻璃のすずらんはゆさゆさと揺れてしまうから、常に息を潜めていなければならない。
けれども、もう五千年も前から、ぼくは欠伸を噛み殺し続けている。とてつもなく眠い……。
ぼくが眠ると、玻璃のすずらんの花が一つ、増えるだろう。
ぼくは何万年も玻璃のすずらんをじっと見つめてきた。星が生まれたら帳簿に印付ける、それがぼくの役目だ。
だけども、楽な仕事じゃない。玻璃のすずらんは、いつ震え出すかわからない。何年もぴくりともしないときもあれば、帳簿に印を付けているその隙に、また新しい星が生まれることもある。油断できない。
くしゃみどころか欠伸でも、玻璃のすずらんはゆさゆさと揺れてしまうから、常に息を潜めていなければならない。
けれども、もう五千年も前から、ぼくは欠伸を噛み殺し続けている。とてつもなく眠い……。
ぼくが眠ると、玻璃のすずらんの花が一つ、増えるだろう。
川面から
なにやらキラキラと光るものがあるので、川へ降りていった。
キラキラの正体は、蝶だった。羽を広げて、ぺたんと浮いている。鱗粉が周りの水面にもやもやと広がっている。
「そんなところに浮かんでいたら、羽が濡れて動けなくなってしまうでしょう?」
とわたしが言うと
「こうして空を見上げながら、漂っていたいのです」
と天から降るような声で答えが返ってきた。
「そんなに気持ちがいいなら、わたしも真似をしてもいい?」
わたしは、服を全部脱いで川に浮かんだ。川の水は冷たい。乳首がきゅっとかたくなる。
身体の力を抜いて浮かぶのは、なかなか難しい。蝶がときどきアドバイスをしてくれた。
「その調子です」
やっと空を見る余裕ができた。真っ青かと思っていた空は、鱗粉を撒き散らしたようにキラキラしていた。
「空ってこんな色だったのね」
蝶の返事はなかった。
キラキラの正体は、蝶だった。羽を広げて、ぺたんと浮いている。鱗粉が周りの水面にもやもやと広がっている。
「そんなところに浮かんでいたら、羽が濡れて動けなくなってしまうでしょう?」
とわたしが言うと
「こうして空を見上げながら、漂っていたいのです」
と天から降るような声で答えが返ってきた。
「そんなに気持ちがいいなら、わたしも真似をしてもいい?」
わたしは、服を全部脱いで川に浮かんだ。川の水は冷たい。乳首がきゅっとかたくなる。
身体の力を抜いて浮かぶのは、なかなか難しい。蝶がときどきアドバイスをしてくれた。
「その調子です」
やっと空を見る余裕ができた。真っ青かと思っていた空は、鱗粉を撒き散らしたようにキラキラしていた。
「空ってこんな色だったのね」
蝶の返事はなかった。
2008年3月9日日曜日
2008年3月7日金曜日
2008年3月6日木曜日
2008年3月4日火曜日
もしもの話
もしも男の子だったら、とよく考えた。
本当に男の子になりたいわけじゃない。
女の子の世界はダサくて男の子の世界は素敵だからだ。着せ替え人形よりプラモデル、スカートよりジーンズのほうが、魅力的なだけ。それが真に似合うのは男の子だけだと思っていた。だから、男の子になることを夢想した。
本物の男の子は、わたしのジーンズを見て寄ってきた。
「それ、ピンテージの復刻モノ?すごい!いいなぁ」
本物の男の子は、さすが話がわかる。
だけど、もしわたしが男の子だったら、彼の笑顔にときめかない。彼の笑顔がまぶしいのは、わたしが男の子じゃないからだ。
彼の笑顔をまぶしいと感じることのほうが、ジーンズの話で盛り上がることより、うれしい。
その日から「もしも」を考えるのは止めた。
本当に男の子になりたいわけじゃない。
女の子の世界はダサくて男の子の世界は素敵だからだ。着せ替え人形よりプラモデル、スカートよりジーンズのほうが、魅力的なだけ。それが真に似合うのは男の子だけだと思っていた。だから、男の子になることを夢想した。
本物の男の子は、わたしのジーンズを見て寄ってきた。
「それ、ピンテージの復刻モノ?すごい!いいなぁ」
本物の男の子は、さすが話がわかる。
だけど、もしわたしが男の子だったら、彼の笑顔にときめかない。彼の笑顔がまぶしいのは、わたしが男の子じゃないからだ。
彼の笑顔をまぶしいと感じることのほうが、ジーンズの話で盛り上がることより、うれしい。
その日から「もしも」を考えるのは止めた。
2008年3月2日日曜日
暇をください三分ばかり
「三分」
願いが聞き届けられるとは思わなかったけれど、なぜかあっさり、三分間の暇をもらうことができた。
わたしはどういうわけか監禁されている。同棲のはずだったのに。
彼はわたしを束縛するあまり、何日もしないうちに仕事にいかなくなった。買い物にもいかないから、食事は買い置きのインスタントラーメンだけ。それも昨日の夜で終わった。
彼は暴力はふるわないけれど、わたしの一挙手一投足をただ見つめ続けている。
わたしは、そこに異様な快感を見出だしている自分に気付いて、怖くなった。
暇をもらった三分間、まず外に出て伸びをした。母に電話をし、早口で事情を告げた。
それから、彼に電話をした。
「もうわたしを見るのはやめて」
「どうして?」
その声は携帯電話からではなく……。
ストップウォッチを持った彼が瞬きもせずに、わたしの顔を凝視している。ずきんと身体が熱くなる。
願いが聞き届けられるとは思わなかったけれど、なぜかあっさり、三分間の暇をもらうことができた。
わたしはどういうわけか監禁されている。同棲のはずだったのに。
彼はわたしを束縛するあまり、何日もしないうちに仕事にいかなくなった。買い物にもいかないから、食事は買い置きのインスタントラーメンだけ。それも昨日の夜で終わった。
彼は暴力はふるわないけれど、わたしの一挙手一投足をただ見つめ続けている。
わたしは、そこに異様な快感を見出だしている自分に気付いて、怖くなった。
暇をもらった三分間、まず外に出て伸びをした。母に電話をし、早口で事情を告げた。
それから、彼に電話をした。
「もうわたしを見るのはやめて」
「どうして?」
その声は携帯電話からではなく……。
ストップウォッチを持った彼が瞬きもせずに、わたしの顔を凝視している。ずきんと身体が熱くなる。
エスケープの合図を送れ
本当に、合図なんて送れるのだろうか。
深い眠りの中で、僕たちはいつもしっかりと手を繋いで泳いでいる。昼間の僕たちには考えられないけれど、そうしなければ強い流れに飲み込まれてしまうから。
夢というには、あまりに苦しい現実だ。朝起きれば、パジャマも髪もぐしょ濡れで、同級生である彼女もまた同じ状態らしい。
今朝、巨大な生き物が接近するところで目が覚めた。シャチならいい。巨大タコでもまだマシだ。たぶんこの世の生き物じゃない。だってやっぱり、僕とあのコの夢が作り上げたものだから……。
とにかく今夜は確実に襲いかかってくるだろう。
授業中も、彼女の後ろ姿を見ながら、あの生き物から逃れる方法ばかり考えていた。
「引き付けたところで、合図するから」
学校からの帰り道、やっと彼女に話しかけた。彼女の顔色が変わった。
「右手に向かって逃げるんだ。あっちのほうが、たぶん流れが穏やかだ」
「できない、一人じゃ泳げないよ。それに……」
「大丈夫。ちゃんと目が覚めて、明日も退屈な学校にいく。それだけだよ」
大丈夫な保証はない。前に岩にぶつかってケガをした時は、病院でキズを縫った。
僕たちは、初めて手を繋いで歩いた。
よく知っている手。でも、濡れていない。ここは夢でも水中でもないんだな。なのに、不安なのはなぜだろう。
彼女逃がすために、僕は今夜眠るのだ。
深い眠りの中で、僕たちはいつもしっかりと手を繋いで泳いでいる。昼間の僕たちには考えられないけれど、そうしなければ強い流れに飲み込まれてしまうから。
夢というには、あまりに苦しい現実だ。朝起きれば、パジャマも髪もぐしょ濡れで、同級生である彼女もまた同じ状態らしい。
今朝、巨大な生き物が接近するところで目が覚めた。シャチならいい。巨大タコでもまだマシだ。たぶんこの世の生き物じゃない。だってやっぱり、僕とあのコの夢が作り上げたものだから……。
とにかく今夜は確実に襲いかかってくるだろう。
授業中も、彼女の後ろ姿を見ながら、あの生き物から逃れる方法ばかり考えていた。
「引き付けたところで、合図するから」
学校からの帰り道、やっと彼女に話しかけた。彼女の顔色が変わった。
「右手に向かって逃げるんだ。あっちのほうが、たぶん流れが穏やかだ」
「できない、一人じゃ泳げないよ。それに……」
「大丈夫。ちゃんと目が覚めて、明日も退屈な学校にいく。それだけだよ」
大丈夫な保証はない。前に岩にぶつかってケガをした時は、病院でキズを縫った。
僕たちは、初めて手を繋いで歩いた。
よく知っている手。でも、濡れていない。ここは夢でも水中でもないんだな。なのに、不安なのはなぜだろう。
彼女逃がすために、僕は今夜眠るのだ。
2008年3月1日土曜日
2008年2月29日金曜日
2008年2月28日木曜日
2008年2月23日土曜日
2008年2月21日木曜日
冷めないうちに召し上がれ
冷めないうちに召し上がれ、ってキミは言うけれど、ぐつぐつと沸騰しているこの野菜スープを今すぐに飲むのは不可能だ。
キミはニコニコとぼくがスプーンを口に運ぶのを待っている。もしかしたら、キミはぼくがきらいなのかもしれない。ぼくに火傷を負わせようとしているのだから。
そう思ったら堪らなくなって野菜スープを頭の上からキミにかけた。
キミは全身から湯気を出して、相変わらずニコニコしている。
どうせ火傷をするならば……今からぼくは、熱いスープを舐めるためにキミに抱きつくよ、いいかな?
キミはニコニコとぼくがスプーンを口に運ぶのを待っている。もしかしたら、キミはぼくがきらいなのかもしれない。ぼくに火傷を負わせようとしているのだから。
そう思ったら堪らなくなって野菜スープを頭の上からキミにかけた。
キミは全身から湯気を出して、相変わらずニコニコしている。
どうせ火傷をするならば……今からぼくは、熱いスープを舐めるためにキミに抱きつくよ、いいかな?
2008年2月20日水曜日
2008年2月19日火曜日
2008年2月17日日曜日
えげつないよ
燃料を取り出そうと、鞄に手を突っ込む。焦っているからなかなか見つからない。
そりゃあ機械だから、燃料がなくなれば動かなくなって当然だ。だが、この人型ロボットは、そこらの燃料切れとはわけがちがう。
うっとりと目を潤ませ、スカートをたくしあげ、お尻を突き出したポーズで停止。
なんといやらしい、もとい、卑しいポーズ!
同じ型のロボットは数あれど、こいつはわざわざ、この格好になってから停止するのだ。
だって、この格好が一番カンタンでしょう?ワタシ、一刻も早く満タンにしてほしいんですもの、というもっともらしい言い分を囁いて。停止している間の時間の経過なんか、わかるはずもないくせに。
町中でやられると非常に困る。下着をずらして、尾てい骨の位置にある蓋を開け、燃料ボックスを取り替える。
するとすぐに、ぷるんと尻を震わせて、捲れたスカートを直しながら、ロボットは言うのだ。
「ごちそうさまでしたぁ」
そりゃあ機械だから、燃料がなくなれば動かなくなって当然だ。だが、この人型ロボットは、そこらの燃料切れとはわけがちがう。
うっとりと目を潤ませ、スカートをたくしあげ、お尻を突き出したポーズで停止。
なんといやらしい、もとい、卑しいポーズ!
同じ型のロボットは数あれど、こいつはわざわざ、この格好になってから停止するのだ。
だって、この格好が一番カンタンでしょう?ワタシ、一刻も早く満タンにしてほしいんですもの、というもっともらしい言い分を囁いて。停止している間の時間の経過なんか、わかるはずもないくせに。
町中でやられると非常に困る。下着をずらして、尾てい骨の位置にある蓋を開け、燃料ボックスを取り替える。
するとすぐに、ぷるんと尻を震わせて、捲れたスカートを直しながら、ロボットは言うのだ。
「ごちそうさまでしたぁ」
2008年2月16日土曜日
2008年2月13日水曜日
2008年2月12日火曜日
真似ばかりしないでくれる?
わたしが足を組むと、あなたも足を組む。
わたしがレモンスカッシュを飲むと、あなたはコーラを飲む。
ねぇ、もう止めてよ、わたしの真似をするのは。わたしだってあなたの真似がしたいのに。
そう思いながら、頬杖をついてあなたを見つめる。あなたはまた、わたしの真似をするから仕方なく目をつぶった。
だから、ちゃんとキスしてね?
わたしがレモンスカッシュを飲むと、あなたはコーラを飲む。
ねぇ、もう止めてよ、わたしの真似をするのは。わたしだってあなたの真似がしたいのに。
そう思いながら、頬杖をついてあなたを見つめる。あなたはまた、わたしの真似をするから仕方なく目をつぶった。
だから、ちゃんとキスしてね?
2008年2月11日月曜日
母はドライヤー【即興】
ドライヤーの熱のせいだろう、うまれた子供は、産婆が触るのもためらうほどに熱かった。
子供の曽祖父にあたる老人のひげが、めきめきと伸び、赤ん坊を抱き上げた。
ひげに包まれた赤ん坊の身体から、蒸気が噴出す。
てんとう虫の呪文@Skype中
子供の曽祖父にあたる老人のひげが、めきめきと伸び、赤ん坊を抱き上げた。
ひげに包まれた赤ん坊の身体から、蒸気が噴出す。
てんとう虫の呪文@Skype中
2008年2月8日金曜日
2008年2月6日水曜日
2008年2月5日火曜日
のめりこみ症候群
「恐怖、のめりこみ症候群」
と、夕刊に記事が出ていることに気づいた。
のめりこみ症候群は、始めたことを寝食も忘れて熱中してしまうことで起きる、不可解な諸症状を指すのだという。
まず、涎が垂れる。そして爪が伸びる。ひどい人になると犬歯も伸び、牙のようになってしまうらしい。
さらに記事は、熱中するのを止めさせるコツを伝えているが、たいした効果はないと言う。
寝食を忘れたやつれ顔に長い爪と牙を持った患者は、俺とそっくりに違いない。のめりこみ症候群の重症患者が生き血を求めて彷徨い出すやもしれぬ。ご馳走にありつく機会が減ると厄介だ。しかし、ひょんなきっかけで仲間が増えるのは、なかなか愉快ではある。俺は舌なめずりをしながら新聞を畳んだ。さぁ、食事の時間だ。
と、夕刊に記事が出ていることに気づいた。
のめりこみ症候群は、始めたことを寝食も忘れて熱中してしまうことで起きる、不可解な諸症状を指すのだという。
まず、涎が垂れる。そして爪が伸びる。ひどい人になると犬歯も伸び、牙のようになってしまうらしい。
さらに記事は、熱中するのを止めさせるコツを伝えているが、たいした効果はないと言う。
寝食を忘れたやつれ顔に長い爪と牙を持った患者は、俺とそっくりに違いない。のめりこみ症候群の重症患者が生き血を求めて彷徨い出すやもしれぬ。ご馳走にありつく機会が減ると厄介だ。しかし、ひょんなきっかけで仲間が増えるのは、なかなか愉快ではある。俺は舌なめずりをしながら新聞を畳んだ。さぁ、食事の時間だ。
2008年2月3日日曜日
イミテーションはどっち
「さて、二つの絵のうち、片方は画家の真筆、片方は私が書いた贋作だ」
と、男が言った。
楽器を持った男が三人、ユーモラスに描かれている絵が二枚。どこからどう見てもそっくりだ。
「あなたが魔術師なら、どちらが真筆か、わかるだろう?」
私はわざとらしくニヤリと左の口角を上げてみせる。男が不快そうに顔をしかめる。
「私じゃなくても、こうすれば皆がすぐにわかるだろ?」
指をパチン!と鳴らした。
片方の絵の中のミュージシャンたちが、陽気に演奏を始める。
もちろん、こちらがかの高名なピベラ・デュオガ・ハソ・ヘリンスセカ・ド・ピエリ・フィン・ノピメソナ・ミルイ・ド・ラセ・ロモデェアセ・スペルイーナ・ケルセプン・ケルセプニューナ・ド・リ・シンテュミ・タルヌヂッタ・レウセ・ウ・ベリンセカ・プキサの作品である。
と、男が言った。
楽器を持った男が三人、ユーモラスに描かれている絵が二枚。どこからどう見てもそっくりだ。
「あなたが魔術師なら、どちらが真筆か、わかるだろう?」
私はわざとらしくニヤリと左の口角を上げてみせる。男が不快そうに顔をしかめる。
「私じゃなくても、こうすれば皆がすぐにわかるだろ?」
指をパチン!と鳴らした。
片方の絵の中のミュージシャンたちが、陽気に演奏を始める。
もちろん、こちらがかの高名なピベラ・デュオガ・ハソ・ヘリンスセカ・ド・ピエリ・フィン・ノピメソナ・ミルイ・ド・ラセ・ロモデェアセ・スペルイーナ・ケルセプン・ケルセプニューナ・ド・リ・シンテュミ・タルヌヂッタ・レウセ・ウ・ベリンセカ・プキサの作品である。
2008年1月31日木曜日
うるさい人形
瑠璃はなんとか口を動かそうと懸命だ。
「頑張って、瑠璃。もう少しだ」
僕はやさしく声を掛ける。
瑠璃は人形だ。ラピスラズリの瞳が入っているから、そう名付けた。瑠璃と暮らし始めてすぐ、彼女が何か言いたがっていることに、僕は気づいた。
「きみは人形だ。陶で出来た人形だ。でも言いたいことがあるんなら、きっと話せるようになる。まずはそのかわいいくちびるを動かそう」
瑠璃の青い瞳が濃くなった。
しばらくすると、瑠璃の口元は罅だらけになった。罅が増えるたび、瑠璃のくちびるは、大きく動くようになった。
「いいぞ、瑠璃。今度は声だよ、喉を震わせるんだ、できるね?」
もはやくちびるがどこにあったのかわからないほど顔が砕けた瑠璃だが、発声練習は四六時中休むことなく続いた。「ア」とも「ハ」ともつかない囁き声。
そしてついに、瑠璃が僕を見つめて言った。
「タス、ケテ、タスケ、テ、タスケテ、タスケテエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
瑠璃の絶叫は、まだ止まない。
「頑張って、瑠璃。もう少しだ」
僕はやさしく声を掛ける。
瑠璃は人形だ。ラピスラズリの瞳が入っているから、そう名付けた。瑠璃と暮らし始めてすぐ、彼女が何か言いたがっていることに、僕は気づいた。
「きみは人形だ。陶で出来た人形だ。でも言いたいことがあるんなら、きっと話せるようになる。まずはそのかわいいくちびるを動かそう」
瑠璃の青い瞳が濃くなった。
しばらくすると、瑠璃の口元は罅だらけになった。罅が増えるたび、瑠璃のくちびるは、大きく動くようになった。
「いいぞ、瑠璃。今度は声だよ、喉を震わせるんだ、できるね?」
もはやくちびるがどこにあったのかわからないほど顔が砕けた瑠璃だが、発声練習は四六時中休むことなく続いた。「ア」とも「ハ」ともつかない囁き声。
そしてついに、瑠璃が僕を見つめて言った。
「タス、ケテ、タスケ、テ、タスケテ、タスケテエエエエエエエエエエエエエエエエエ」
瑠璃の絶叫は、まだ止まない。
2008年1月30日水曜日
無の境地はどこにある
無の境地に至るため、世界各地の秘境に出向き、滝に打たれる。
滝に打たれている最中は、疲労と水圧と冷えで何も考えられなくなる。これを無と呼んでいいものか、私はいつも疑問に思いつつ、なお滝に打たれる。
今、目の前でゴウゴウと落ちるのは、ココアの滝だ。
世界中の滝を訪れたが、無論こんな滝ははじめてである。
早速、服を脱ぎ、滝壺に入る。
疲れた身体に香りと熱さが、容赦なく襲う。
皮膚が今まさに爛れはじめている。なのに、ココアの香りに包まれていることに、幸せすら感じる。
味わったことのないこの恍惚感は、限りなく無の境地に近いかもしれない!
わずかに残った理性は、甘い香りのもたらす煩悩と、全身火傷による死の予感を警告している。
滝に打たれている最中は、疲労と水圧と冷えで何も考えられなくなる。これを無と呼んでいいものか、私はいつも疑問に思いつつ、なお滝に打たれる。
今、目の前でゴウゴウと落ちるのは、ココアの滝だ。
世界中の滝を訪れたが、無論こんな滝ははじめてである。
早速、服を脱ぎ、滝壺に入る。
疲れた身体に香りと熱さが、容赦なく襲う。
皮膚が今まさに爛れはじめている。なのに、ココアの香りに包まれていることに、幸せすら感じる。
味わったことのないこの恍惚感は、限りなく無の境地に近いかもしれない!
わずかに残った理性は、甘い香りのもたらす煩悩と、全身火傷による死の予感を警告している。
2008年1月28日月曜日
回帰
旅の途中で立ち寄った浴場は、ひどく寂れていた。脱衣所の蛍光灯は点滅し、そのスイッチは壁から垂れ下がって配線が剥き出しだった。
それでも、そそくさと服を脱ぎ湯に入った。寒さで縮こまっていた筋肉が徐々にほぐれていく。
心地よさは突然破られた。老婆が入ってきたのだ。混浴だったことにも、腰が曲がり骨と皮だけのような姿にも動揺した。しばらくしたら、素知らぬ振りで風呂から出よう。
老婆は浴槽の縁に腰掛けると、脚を広く開いた。やや苦しそうに呼吸している。大丈夫かと声を掛けるべきか。迷っていると、その股座(またぐら)から何やら出てくるのに気づいた。風呂から出たいと思っていたことも忘れ、その光景に目を奪われる。
小さな呻き声をあげながら、老婆はそれを産み落とした。一瞬水子かと思ったそれは、人形だった。ぬらぬらと濡れたまま湯に沈められると、たちまち大きくなり手足が動いた。人形は、十歳くらいの少女となった。
少女は老婆と俺を洗い場へ誘い、石鹸を丹念に泡立て、二人の身体を交互に洗い始めた。足の指から耳の中まで。臍も性器も例外なく。その感触に俺が我を忘れそうになると、やわらかい手は老婆の身体へかえってしまう。
落胆と期待の眼差しで、少女の手の動きを見つめる。幼い手に撫でられている皺だらけの肌は、次第に赤みを帯びていくようだ。腰が伸び、乳房が持ち上がる。老婆は、少女とそっくりな女になった。
「本当に親子なんですね」
「ええ。でも、そろそろ時間です。この子は帰らなくてはなりません」
冷水を浴びせられた少女は、人形に戻ってしまった。それを俺に差し出して、女が言う。
「お手伝い、してくださいますか」
俺は、泡の残る女の肢体を撫で回しながら人形を突き刺した。
ポプラ社 週刊てのひら怪談掲載作
それでも、そそくさと服を脱ぎ湯に入った。寒さで縮こまっていた筋肉が徐々にほぐれていく。
心地よさは突然破られた。老婆が入ってきたのだ。混浴だったことにも、腰が曲がり骨と皮だけのような姿にも動揺した。しばらくしたら、素知らぬ振りで風呂から出よう。
老婆は浴槽の縁に腰掛けると、脚を広く開いた。やや苦しそうに呼吸している。大丈夫かと声を掛けるべきか。迷っていると、その股座(またぐら)から何やら出てくるのに気づいた。風呂から出たいと思っていたことも忘れ、その光景に目を奪われる。
小さな呻き声をあげながら、老婆はそれを産み落とした。一瞬水子かと思ったそれは、人形だった。ぬらぬらと濡れたまま湯に沈められると、たちまち大きくなり手足が動いた。人形は、十歳くらいの少女となった。
少女は老婆と俺を洗い場へ誘い、石鹸を丹念に泡立て、二人の身体を交互に洗い始めた。足の指から耳の中まで。臍も性器も例外なく。その感触に俺が我を忘れそうになると、やわらかい手は老婆の身体へかえってしまう。
落胆と期待の眼差しで、少女の手の動きを見つめる。幼い手に撫でられている皺だらけの肌は、次第に赤みを帯びていくようだ。腰が伸び、乳房が持ち上がる。老婆は、少女とそっくりな女になった。
「本当に親子なんですね」
「ええ。でも、そろそろ時間です。この子は帰らなくてはなりません」
冷水を浴びせられた少女は、人形に戻ってしまった。それを俺に差し出して、女が言う。
「お手伝い、してくださいますか」
俺は、泡の残る女の肢体を撫で回しながら人形を突き刺した。
ポプラ社 週刊てのひら怪談掲載作
ラストバトル2060
2008年から始まった戦いは2060年に終わる。
そう預言したのは、黄金虫のアルフォンスだ、と言われている。
アルフォンスは標本になり、今は博物館のロビーに陳列されている。
2060年の今、アルフォンスの言う戦いが何だったのか、わからなくなってしまった。
たかが半世紀ちょっと前なのだけど、2008年には、オリンピックもあるし、夫婦喧嘩もあるし、二酸化炭素もあるし、プロレスも相撲もあるし、冤罪もある。一体どれが黄金虫の言う戦いなのか、わからないのだ。
それでも、何かが終わることを期待して、人々は「ラストバトル」を待っている。
そう預言したのは、黄金虫のアルフォンスだ、と言われている。
アルフォンスは標本になり、今は博物館のロビーに陳列されている。
2060年の今、アルフォンスの言う戦いが何だったのか、わからなくなってしまった。
たかが半世紀ちょっと前なのだけど、2008年には、オリンピックもあるし、夫婦喧嘩もあるし、二酸化炭素もあるし、プロレスも相撲もあるし、冤罪もある。一体どれが黄金虫の言う戦いなのか、わからないのだ。
それでも、何かが終わることを期待して、人々は「ラストバトル」を待っている。
2008年1月27日日曜日
涙を舐める
いまにも溢れそうな涙を舌で掬い、飲み込んだ。すると、キミはいよいよ泣き出すから、ぼくは流れる涙を次々に舐める。
ぼくの舌はキミの朿で傷だらけになり、涙は血の味になった。
サボテンであるキミが涙のような露を出すと知ったのは、ぼくが初めフられた日の夜だった。
朿の先にぷわりと水玉が膨らむのを見て、これは涙だ、ぼくの代わりに泣いているのかもしれない、と思った。
あの日からだいぶ月日は過ぎた。ぼくは何度もサボテンを泣かせた。けれども、流れるほどサボテンが泣くのは初めてだ。
そう。今夜、ぼくはすごく泣きたい。声出して泣きたい。かわりにサボテンが泣いてくれるなら、ぼくはその涙を全部引き受ける。
ぼくの舌はキミの朿で傷だらけになり、涙は血の味になった。
サボテンであるキミが涙のような露を出すと知ったのは、ぼくが初めフられた日の夜だった。
朿の先にぷわりと水玉が膨らむのを見て、これは涙だ、ぼくの代わりに泣いているのかもしれない、と思った。
あの日からだいぶ月日は過ぎた。ぼくは何度もサボテンを泣かせた。けれども、流れるほどサボテンが泣くのは初めてだ。
そう。今夜、ぼくはすごく泣きたい。声出して泣きたい。かわりにサボテンが泣いてくれるなら、ぼくはその涙を全部引き受ける。
2008年1月26日土曜日
値切るつもりじゃなかったのに
エジプトの露店で、小さなオルゴールを見つけた。
金と紫色の石で細かい幾何学模様が施された箱型のオルゴールだ。
「東洋人、これはよいものに目をつけた」
などと店主に言われて、あやしさにますます胸が高鳴る。値段は安い。すぐにでも買いたかったが
「どんな曲が聞けるんだい?」
と聞いてみた。すると店主は目に見えて焦りだし
「音楽なんかどうでもいいじゃないか。金と紫水晶の細工がきれいだろう?お土産にすればいい。安くするよ」
とまくし立てた。
「確かにきれいな箱だよ。でもこれはオルゴールだろ?ちょっと聞かせてくれよ」
店主は、そんなの宿に帰ってからゆっくり聞けばいいじゃないか、と言い放つ。小銭を数枚渡すと、ろくに数も数えずオルゴールを私に握らせた。そして、早く去れといいたそうに「ありがとう」を繰り返したのだった。
オルゴールから聞こえたのは、女のすすり泣きだった。なぜか私はその声に心を奪われ、毎晩、発条を回している。
金と紫色の石で細かい幾何学模様が施された箱型のオルゴールだ。
「東洋人、これはよいものに目をつけた」
などと店主に言われて、あやしさにますます胸が高鳴る。値段は安い。すぐにでも買いたかったが
「どんな曲が聞けるんだい?」
と聞いてみた。すると店主は目に見えて焦りだし
「音楽なんかどうでもいいじゃないか。金と紫水晶の細工がきれいだろう?お土産にすればいい。安くするよ」
とまくし立てた。
「確かにきれいな箱だよ。でもこれはオルゴールだろ?ちょっと聞かせてくれよ」
店主は、そんなの宿に帰ってからゆっくり聞けばいいじゃないか、と言い放つ。小銭を数枚渡すと、ろくに数も数えずオルゴールを私に握らせた。そして、早く去れといいたそうに「ありがとう」を繰り返したのだった。
オルゴールから聞こえたのは、女のすすり泣きだった。なぜか私はその声に心を奪われ、毎晩、発条を回している。
黒猫のしっぽを切った話
ピカビアな夜のこと、X君は、大きな黒猫に出会った。
「きみのしっぽは実にふかふかでしなやかでたくましい」
X君がそう褒めると黒猫はそのしっぽをX君の身体に巻きつけた。
X君はこれ幸いとしっぽをハサミでチョキンと切った。
その瞬間、X君は黒猫のしっぽもろとも、ひゅぃっと飛び出し、ほうき星になった。
【鴨沢祐仁氏を偲んで】
「きみのしっぽは実にふかふかでしなやかでたくましい」
X君がそう褒めると黒猫はそのしっぽをX君の身体に巻きつけた。
X君はこれ幸いとしっぽをハサミでチョキンと切った。
その瞬間、X君は黒猫のしっぽもろとも、ひゅぃっと飛び出し、ほうき星になった。
【鴨沢祐仁氏を偲んで】
2008年1月25日金曜日
2008年1月23日水曜日
2008年1月21日月曜日
レタスとキャベツとマヨネーズ
レタスはキャベツが嫌い。キャベツはマヨネーズに片思い。
マヨネーズはレタスのほうがよっぽど好きだけど、レタスはぬるぬるがあんまり好きじゃない。
キャベツはレタスに一目置いてるけども、レタスは嫌われてると思ってる。だからレタスはキャベツが嫌い。
そんなことはお構い無しに、アイちゃんはマヨネーズをご飯にかけて食べる。
レタスもキャベツも腐りそう。
マヨネーズはレタスのほうがよっぽど好きだけど、レタスはぬるぬるがあんまり好きじゃない。
キャベツはレタスに一目置いてるけども、レタスは嫌われてると思ってる。だからレタスはキャベツが嫌い。
そんなことはお構い無しに、アイちゃんはマヨネーズをご飯にかけて食べる。
レタスもキャベツも腐りそう。
2008年1月20日日曜日
2008年1月17日木曜日
夜を盗みにきた男
泥棒のスチュワートは四部屋だけの小さなアパートにやってきた。夜を盗むためである。
抜き足差し足忍び足、階段をあがり、202号室のドアの錠を針金で開ける。
202号室のリチャードは、明日の試験に備えて徹夜の勉強中だった。これでは夜を盗めない。
隣の201号室のジョンは、テレビゲームに夢中だった。これでは夜を盗めない。
気を取り直して一階へ降りる。102号室のポールは、ベッドを軋ませ愛を喚いていた。うぶなスチュワートは動揺する。
深呼吸してから101号室へ。101号室のジョージは、ぶつぶつと何か呟きながら酒を飲んでいた。酒臭さに辟易してあわててドアを閉めた。
「嗚呼!マミィ。俺はただすやすやと眠る人から夜を盗みたかっただけなのに!一体なにがいけなかったの?」
スチュワートは暖かいベッドに潜り込み、仕事をしくじったとベソをかく。
抜き足差し足忍び足、階段をあがり、202号室のドアの錠を針金で開ける。
202号室のリチャードは、明日の試験に備えて徹夜の勉強中だった。これでは夜を盗めない。
隣の201号室のジョンは、テレビゲームに夢中だった。これでは夜を盗めない。
気を取り直して一階へ降りる。102号室のポールは、ベッドを軋ませ愛を喚いていた。うぶなスチュワートは動揺する。
深呼吸してから101号室へ。101号室のジョージは、ぶつぶつと何か呟きながら酒を飲んでいた。酒臭さに辟易してあわててドアを閉めた。
「嗚呼!マミィ。俺はただすやすやと眠る人から夜を盗みたかっただけなのに!一体なにがいけなかったの?」
スチュワートは暖かいベッドに潜り込み、仕事をしくじったとベソをかく。
2008年1月16日水曜日
枯れない花
少年は小さな銀色の花を見つけた。彼の家の玄関から百二十五歩の道端に。毎日水をやり、話かけた。嵐の日も雪の日も
「やぁ、僕のともだち。銀色のお花、元気かい?今日もきれいだね」
少年が青年になってもその習慣は変わらない。大きくなった彼の足が、八十五歩で銀色の花にたどり着くようになっただけ。
老人になっても変わらない。人々は彼を奇人扱いしたが、一年中みずみずしい葉と花を保つ小さな銀色の花こそがおかしいと気づく者はいない。
彼は、銀色の花の傍らで蹲ったまま命を終えた。ごろり、と風で彼の亡骸は転がり、銀色の花は下敷きになった。
翌日、すでに死体はない。銀色の花は一回り大きくなって風にそよいでいる。
「やぁ、僕のともだち。銀色のお花、元気かい?今日もきれいだね」
少年が青年になってもその習慣は変わらない。大きくなった彼の足が、八十五歩で銀色の花にたどり着くようになっただけ。
老人になっても変わらない。人々は彼を奇人扱いしたが、一年中みずみずしい葉と花を保つ小さな銀色の花こそがおかしいと気づく者はいない。
彼は、銀色の花の傍らで蹲ったまま命を終えた。ごろり、と風で彼の亡骸は転がり、銀色の花は下敷きになった。
翌日、すでに死体はない。銀色の花は一回り大きくなって風にそよいでいる。
2008年1月15日火曜日
罠の数は35
罠の数は35、ということはあらかじめわかっていた。
ミミズのプールとか、天井から蛸が落ちてきたりとか、巨大なめくじの扉とか、蛙の卵の掴み取りとか、どうもヤツはぬめぬめしたのがお好みらしい。
あと残る罠はひとつのはずなのだが、身体中が色々な生き物の体液や粘液に塗れ、臭いは痒いは。どろどろ服は、所々粘液が乾きはじめカピカピになっている。
「もう、勘弁してくれ!!」
俺は叫んだ。すると「最後の粘液は自分で出せ!」とアイツの声が帰ってきた。
どういうことだ?とぼんやりした頭で考えていると、なんと向こうから美しい女がやってくるではないか。合点承知。
とにかく、この汚れた服を脱ぎたいのだけれども、粘液がたっぷり染み込んだ服がなかなか脱げない。あぁ、これが35番目の罠なんだ、と気付いた。美女を目の前にますます焦る。
ミミズのプールとか、天井から蛸が落ちてきたりとか、巨大なめくじの扉とか、蛙の卵の掴み取りとか、どうもヤツはぬめぬめしたのがお好みらしい。
あと残る罠はひとつのはずなのだが、身体中が色々な生き物の体液や粘液に塗れ、臭いは痒いは。どろどろ服は、所々粘液が乾きはじめカピカピになっている。
「もう、勘弁してくれ!!」
俺は叫んだ。すると「最後の粘液は自分で出せ!」とアイツの声が帰ってきた。
どういうことだ?とぼんやりした頭で考えていると、なんと向こうから美しい女がやってくるではないか。合点承知。
とにかく、この汚れた服を脱ぎたいのだけれども、粘液がたっぷり染み込んだ服がなかなか脱げない。あぁ、これが35番目の罠なんだ、と気付いた。美女を目の前にますます焦る。
2008年1月14日月曜日
2008年1月12日土曜日
ルパートさん出番です
ルパートさんは大根役者だから、だいたい大根を抱えて舞台にあがる。
「ルパートさん出番です」
と声が聞こえて、ルパートさんはピエロの赤い鼻の取り付け具合を直し、大根の本数は二本がいいか三本がいいか悩み、最初のセリフが「やぁ、スミスさん」だったか「こんにちは、スミスさん」だったかを確認した。
ルパートさんが舞台に出ると、いつも客席には誰もいない。
「ルパートさん出番です」
と声が聞こえて、ルパートさんはピエロの赤い鼻の取り付け具合を直し、大根の本数は二本がいいか三本がいいか悩み、最初のセリフが「やぁ、スミスさん」だったか「こんにちは、スミスさん」だったかを確認した。
ルパートさんが舞台に出ると、いつも客席には誰もいない。
2008年1月11日金曜日
2008年1月10日木曜日
ぬしは逃げた
亀の姿で人語を操る山のぬしは、小さな洞窟に住んでいた。
ぬしと出会ったのは十年前、家出をして山に迷い込んだときにぬしが助けてくれたのだ。
「こども、何を泣いている。飴でもやろうか」と亀に言われてわたしはピタリと泣き止んだものだ。
後から知ったのだが、ぬしはペロペロキャンディーが大好きだったのだ。洞窟には色とりどりのペロペロキャンディーがきちんと整理されていた。
以来、わたしはぬしの洞窟に遊びに行くようになった。キャンディーを舐めながらぬしと喋るのは、楽しかった。
昨日、ぬしが突然我が家にやってきた。山のぬしが町まで出てきていいのだろうか。
「亀の足では何日かかったことやら。迎えに行ったのに」と言うと
「急なことだったのだ」と頭を甲羅に出し入れしながら照れ臭そうに言った。
どうやら歯医者に見つかりそうになったらしい。
ぬしと出会ったのは十年前、家出をして山に迷い込んだときにぬしが助けてくれたのだ。
「こども、何を泣いている。飴でもやろうか」と亀に言われてわたしはピタリと泣き止んだものだ。
後から知ったのだが、ぬしはペロペロキャンディーが大好きだったのだ。洞窟には色とりどりのペロペロキャンディーがきちんと整理されていた。
以来、わたしはぬしの洞窟に遊びに行くようになった。キャンディーを舐めながらぬしと喋るのは、楽しかった。
昨日、ぬしが突然我が家にやってきた。山のぬしが町まで出てきていいのだろうか。
「亀の足では何日かかったことやら。迎えに行ったのに」と言うと
「急なことだったのだ」と頭を甲羅に出し入れしながら照れ臭そうに言った。
どうやら歯医者に見つかりそうになったらしい。
2008年1月8日火曜日
飛行機の事実
尻尾を切られた黒猫は飛行少年の部屋に迷い込んでしまった。
飛行少年は、デスクライトだけを点けた薄暗い部屋の中で飛行機のグラビア写真を食い入るように見つめていたから、黒猫に気付く様子はなかった。
飛行少年の部屋には小さいのも大きいのも、沢山の飛行機の模型が並んでいた。
夥しい飛行機に囲まれながら、飛行少年は飛行機のグラビアを、頬を赤く染めながら、うっとりと見つめているのだった。
黒猫は、船については少女から船長の話を聞いていたからよく知っていたが、飛行機のことは知らなかった。
後から月に尋ねると
「飛行機? あれじゃ私の処へは到底来られないね」
それきり黒猫は飛行機への興味を失った。
飛行少年は、デスクライトだけを点けた薄暗い部屋の中で飛行機のグラビア写真を食い入るように見つめていたから、黒猫に気付く様子はなかった。
飛行少年の部屋には小さいのも大きいのも、沢山の飛行機の模型が並んでいた。
夥しい飛行機に囲まれながら、飛行少年は飛行機のグラビアを、頬を赤く染めながら、うっとりと見つめているのだった。
黒猫は、船については少女から船長の話を聞いていたからよく知っていたが、飛行機のことは知らなかった。
後から月に尋ねると
「飛行機? あれじゃ私の処へは到底来られないね」
それきり黒猫は飛行機への興味を失った。
理由はたったひとつだけ
きみが海に帰ると言ったとき、ぼくは心底哀しかった。
海に帰るということは、水の泡になるということだ。きみの身体は鱗一枚も残らない。たとえここでぼくがきみの鱗を引っかいて、むしって、硝子の瓶に入れておいたとしても。
そんなことを考えていたせいか、ぼくはきみの鱗を逆立つように撫で回していた。
ざりざりざりざり
――やめて。鱗が剥がれちゃう。
ざりざりざりざり
――なんだよ、水の泡になるくせに、鱗が惜しいのか。
ざりざりざりざり
――そうよ。すべて均等に泡になりたい、一斉に。それ以上の何があるの?
何もないから、哀しいのに。
海に帰るということは、水の泡になるということだ。きみの身体は鱗一枚も残らない。たとえここでぼくがきみの鱗を引っかいて、むしって、硝子の瓶に入れておいたとしても。
そんなことを考えていたせいか、ぼくはきみの鱗を逆立つように撫で回していた。
ざりざりざりざり
――やめて。鱗が剥がれちゃう。
ざりざりざりざり
――なんだよ、水の泡になるくせに、鱗が惜しいのか。
ざりざりざりざり
――そうよ。すべて均等に泡になりたい、一斉に。それ以上の何があるの?
何もないから、哀しいのに。
2008年1月6日日曜日
ちらちらと瞬くひかり
ちらちらと輝く彼女のひとみを見ていると、僕は雪の降った朝のことを想う。
あの朝は快晴で、前夜に降った雪が眩しかった。
僕は夜更かしの顔で外に出て、雪の上につっぷした。
雪の中で目をあけると、やっぱりちらちらと輝いていた。真っ白くちらちらと瞬くひかりの世界に沈み込んだ僕は、ぼぅっとなって起き上がれなくなってしまった。
気がついたときには高熱で、布団の中でうなされていた。
彼女のひとみの中は、まるっきりあの雪の中とおんなじで、このまま見つめていたらきっと僕は熱を出す。それでもいいや、と僕はちょっと思っている。今度の熱は氷枕じゃ下がらないかもしれないけれど。
あの朝は快晴で、前夜に降った雪が眩しかった。
僕は夜更かしの顔で外に出て、雪の上につっぷした。
雪の中で目をあけると、やっぱりちらちらと輝いていた。真っ白くちらちらと瞬くひかりの世界に沈み込んだ僕は、ぼぅっとなって起き上がれなくなってしまった。
気がついたときには高熱で、布団の中でうなされていた。
彼女のひとみの中は、まるっきりあの雪の中とおんなじで、このまま見つめていたらきっと僕は熱を出す。それでもいいや、と僕はちょっと思っている。今度の熱は氷枕じゃ下がらないかもしれないけれど。
2008年1月5日土曜日
取り返しのつかない失態
惚れた男は幽霊だった。
そうと知ってはいたものの惚れた弱み、まぐわって、子を産んだ。
産まれた子は幽霊ではなかったが、やたらと若い女の幽霊に媚びを売られ、ほいほいとついていく。次々と女についていくから息子はなかなか家に寄り付かないが、息子の子を孕んだ幽霊は、なぜか私の元に居座る。
今、私には嫁が8人と、孫が11人いる。全員幽霊だ。嫁も孫も皆かわいく、よくしてくれるが、ちょっとばかり肩身が狭い。私も早く幽霊になりたくて剃刀を持ち出したこと数知れず。
けれども8人の嫁が「いけません、おかあさま」とやるもんだから、死ぬに死ねない。
そうと知ってはいたものの惚れた弱み、まぐわって、子を産んだ。
産まれた子は幽霊ではなかったが、やたらと若い女の幽霊に媚びを売られ、ほいほいとついていく。次々と女についていくから息子はなかなか家に寄り付かないが、息子の子を孕んだ幽霊は、なぜか私の元に居座る。
今、私には嫁が8人と、孫が11人いる。全員幽霊だ。嫁も孫も皆かわいく、よくしてくれるが、ちょっとばかり肩身が狭い。私も早く幽霊になりたくて剃刀を持ち出したこと数知れず。
けれども8人の嫁が「いけません、おかあさま」とやるもんだから、死ぬに死ねない。
ビールの友
「昔な、」
とちょっと赤い顔になった親父が言い出したので、またいつもの昔語りが始まったと思ったら、そうではなかった。
「ビールを飲み始めると必ず会う男がいたんだ。最初に会ったのは、どこだったかなぁ。新宿……いや、代々木だったかなぁ。まぁ、ビールを飲んでいて隣の奴と意気投合、話が弾んだのがそいつだった。背の高い男だったな。優男なんだが、よく飲むんだ。たまたま隣合っただけの奴だと思っていたのに、それからしょっちゅう会った。どこの飲み屋でも。あぁ、田舎のパブで会った時にはさすがに驚いたよ。出張で、なんて言ってたけどどんな仕事かは話そうとはしなかったな。で、俺がウィスキーなんか始めると、いつの間にかいなくなっちまうんだ。どんなに話が盛り上がっている時でも。店のママやバーテンに訊いても、あらまぁ、って言いながらニコニコするだけなんだ。どこの店でも、全く同じ。みんなニコニコするだけで、突然居なくなるあいつにも店員にも毎度腹が立ったね。おかしな奴だったよ」
あいつ元気かなぁ、と親父は呟いたけれど、そういえば俺は親父がビールを飲むところを見たことがない。
とちょっと赤い顔になった親父が言い出したので、またいつもの昔語りが始まったと思ったら、そうではなかった。
「ビールを飲み始めると必ず会う男がいたんだ。最初に会ったのは、どこだったかなぁ。新宿……いや、代々木だったかなぁ。まぁ、ビールを飲んでいて隣の奴と意気投合、話が弾んだのがそいつだった。背の高い男だったな。優男なんだが、よく飲むんだ。たまたま隣合っただけの奴だと思っていたのに、それからしょっちゅう会った。どこの飲み屋でも。あぁ、田舎のパブで会った時にはさすがに驚いたよ。出張で、なんて言ってたけどどんな仕事かは話そうとはしなかったな。で、俺がウィスキーなんか始めると、いつの間にかいなくなっちまうんだ。どんなに話が盛り上がっている時でも。店のママやバーテンに訊いても、あらまぁ、って言いながらニコニコするだけなんだ。どこの店でも、全く同じ。みんなニコニコするだけで、突然居なくなるあいつにも店員にも毎度腹が立ったね。おかしな奴だったよ」
あいつ元気かなぁ、と親父は呟いたけれど、そういえば俺は親父がビールを飲むところを見たことがない。
ほう、それが正体か
着替えを終えた者は、儚げな少年だった。
「ほう、これが正体か。百戦錬磨の兵、若いとは思っていたが、思っていた以上に幼いな。この細腕で一体幾人を……」
少年は薄い着物を纏い、その細い腕を所在なさそうにぶらぶらとさせながら
「なぜ俺にこんな格好をさせるのだ!」
と怒鳴った。
青年は構わず、少年を値踏みするように見やる。
傍らには鎧兜が転がっていた。あちこちに飛び散った血はまだ乾いていない。
例の小兵を必ずや生け捕りにしろと命令した大将は、この少年を最初から慰みものにするつもりだったのだ。大将が自分に飽きているのは、もうわかっている。
青年は少年の耳に囁いた。「いいことを教えてやろう」
息を吹き掛けられた耳が赤くなる。
大将は壁の穴からそれを覗き見ている。
「ほう、これが正体か。百戦錬磨の兵、若いとは思っていたが、思っていた以上に幼いな。この細腕で一体幾人を……」
少年は薄い着物を纏い、その細い腕を所在なさそうにぶらぶらとさせながら
「なぜ俺にこんな格好をさせるのだ!」
と怒鳴った。
青年は構わず、少年を値踏みするように見やる。
傍らには鎧兜が転がっていた。あちこちに飛び散った血はまだ乾いていない。
例の小兵を必ずや生け捕りにしろと命令した大将は、この少年を最初から慰みものにするつもりだったのだ。大将が自分に飽きているのは、もうわかっている。
青年は少年の耳に囁いた。「いいことを教えてやろう」
息を吹き掛けられた耳が赤くなる。
大将は壁の穴からそれを覗き見ている。